右翼の言い分/宮崎学 著

平成18年(2006年)8月15日、山形県鶴岡市にある自民党加藤紘一氏の実家が放火された。この事件には、社会全体の右傾化の波を直接被って、右翼民族派の存在そのものが後景へと追いやられることへの無意識のうちの反発という側面があったのではないかと私は考える。事件に際してマスコミや知識人は、「言論に対しては言論で」という反暴力の論理を唱えたが、こうした論理が果たして有効性を持つのか私には疑問だ。腫れ物に触らないようにして、その"凶暴性"を批判し、「言論には言論で」と言ったところで、犬の遠吠えに過ぎない。彼らの懐に飛び込んで、右翼の言い分を聞いてみた。

 

 

キツネ目の男と称された宮崎学が、右翼15団体の幹部に、その右翼思想を聞く内容。図書館で借りた。

2007年刊行の書籍で、この本が出た時点では紹介文にある加藤紘一宅が右翼により放火された事件が話題になっている。

加藤紘一宅放火事件 - Wikipedia

これは小泉純一郎靖国参拝に批判的であった加藤紘一に対して右翼がこれに制裁を加えたという事件だった。

どの右翼団体幹部もこれに賛同しないまでも同情的だったり控えめではあるが支持するということを言っているのが興味深い。言論には言論で応えるべきだというマスコミの論調に対して右翼側の意見は、右翼が機関誌などで政治家を批判しても影響力はなく、マスコミも右翼の意見を取り上げようとしない、ならば肉体言語でそれに応えるというのは右翼のやり方である、という論調だった。暴力を完全に否定しないというのが右翼の姿勢だということをあらためて感じる。

ただし他の考え方においては各団体で色んな意見がある。親米路線をとるものや反米の姿勢を崩さないもの。権力者を批判するために我々がいるのだというものもいれば、自衛隊によるクーデターが必要だと唱えるものもいる。また右翼は任侠と決別するべきだというものもいれば歴史的につながりがあったもので分かち難いという者もいる。共通しているのは尊皇思想であって、他の考え方については右翼としての方向性の一致はあるものの多様性があるといってもいいと思う。

左翼の本丸である共産党は、党内で執行部に対する異論や批判を一切認めない方針だけれど、右翼というものは様々な意見があって、それが並列して存在する。そういうところが右翼のしたたかさであり、粘り強さなのだなと感じる。