一九八四年/ジョージ・オーウェル 著

近未来の全体主義国家を予見した1949年の英国で生まれたSF小説

 

訳者あとがきに以下のようにある。

読んでいないのに見栄によるのか礼儀によるのか、読んだふりをしてしまうという経験は万国共通らしく、英国でもかなりの人が身に覚えがある、と拷問にかけられなくとも告白しているらしい。しかも英国での「読んだふり本」第一位がオーウェルの『一九八四年』だというのである。

かくいう自分もこの本は読んだ本のリストに入れていたが、再読のつもりで読み始めると一度も読んでいないことに気付いた。これは忘れてるんじゃなくて読んでない本だ。

1949年の作品だから第二次大戦が終わってまだ数年という時代に、未来の全体主義国家を描き出しているということが重要な作品。
読んでいると、これはソヴィエトのことを書いたのだろうなと思う。スターリンの大粛清は1930年代だが、西側でも広く知られていたのだろうか。分からない。スターリンのソヴィエト国内での蛮行を知ってこの小説を書いたのか、それとも社会主義共産党一党独裁の未来には自由が失われると予想して書いたのだろうか。巻末のトマス・ピンチョンの解説によると反共宣伝に大いに利用されたということが書かれているが、オーウェルがどれくらいソヴィエトの内情を知っていたのかは興味深い。

ピンチョンの解説に「反共のパンフレットであるかのごとくに販売された」とある。しかしこの小説に出てくる、歴史の改竄、言葉狩りと言葉の削除、画一的思考への誘導、プロールという無知な国民、そして物語の中で頻出するニュースピークと二重思考などは現代の自由主義世界である日本社会にも多々見られるものだ。

劣化した保守主義者たちの歴史改竄は言うまでもない。言葉は縮められ語彙は少なくなり「ヤバい」や「エモい」でなんでも表現して感情を表す多用な言葉は使われなくなる。これは言葉の削除と同じだ。メディアはあたりさわりのないことしか言わず、きちんとした批評も批判もできないでいて、ゆるい無批判な態度や政治に関心を持たずにいることこそが平和的な姿勢だと勘違いさせる。政治家の、質問に返答はするが回答はしないというのらりくらりとした答弁や「改革」や「維新」といった良いイメージの言葉を使って、その実態は真逆か空虚であることはニュースピークそのものだし、劣化した保守主義者たちが矛盾だらけの主張を頭の中で受け入れている姿勢は二重思考でしかない。
この小説は反共のための小説なのではなく、腐敗した政党政治と劣化したメディアを持つ極東の島国の未来を描いたものだろう。たぶん、きっとそうだ。思い当たるふしがあり過ぎる。