ファイト・クラブ/チャック・パラニューク 著

デヴィッド・フィンチャー監督作の名作『ファイト・クラブ』の原作。

 

毎朝、車で仕事に向かう。今の時期ならその時間はまだ日が昇っていなくて暗い。それでも車を走らせていると町は目覚めてくる。朝からウォーキングをする人、ジョギング、犬を散歩させる人、どれも自分には出来そうにない。そんな余裕はない。そんな豊かさは持ち合わせていない。労働と体力回復のための食事と睡眠を24時間から差し引けば僅かな時間しか残されていない。経済的にも時間的にも生きてるのがやっと。
休日は珠に映画を観に行くか書店に行くか。殆どは眠って過ごす。体力を回復させるには、食べ物を胃に押し込んで眠るしかない。明日も働くために休日を使う。でも、それができれば良い方。

書店でハヤカワ文庫と創元推理文庫の棚は少し丹念に見る。SFは好きだから。そしてチャック・パラニュークの『ファイト・クラブ』が棚に並んでいるのを見つける。大好きな映画の原作で、いつか読んで見るべきだと常々思っていた。常々思っていたけれど、なんとなくやり過ごしている内に齢をとっていくものだ。買って帰る。
読み始めようと思っていたけれど、この原作を読み始める契機というものは間違いなくフィンチャーによる映画『ファイト・クラブ』なのだ。もう一度見直すのも悪くない。というか観るべきだ。

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冒頭からエンドロールまで心躍る映像が繰り出される。その全ての映像が美しい。うす汚れたバー、工場地帯にある朽ち果てそうな借家、有刺鉄線に絡まって破れるビニールから溢れ出す脂肪、水浸しの雑誌類、生気のない集会所、事故った車、何もかもが心の琴線に触れる。清潔とはほど遠い、けれど美しいとしか思えない場面が連続して映し出される。そしてそこに蠢く人間たちはどいつもこいつも、小綺麗で豊かな人々にすれば低級な人間で、奴らが動き、なにがしかをしでかし、それが生きている証だ。

本を読み始める。
映画の場面が想起される。しかしこれは詩のような文章だ。どこで何が起こっているかがはっきりと明示されない。この文章は映画のあの場面の記述なのだな、と逆の解釈で読み進める。
もし映画を観る前にこの小説を読んだのなら感想が違っていたかも知れない。あたりまえだけど。フィンチャーの描き出した映像を知らずに読んだなら自分の頭の中には違う像が浮かんでいたかもしれない。でももうそれは無理。配役はエドワード・ノートンブラッド・ピットしかあり得ない。映画を体験した身にはそうとしか思えない。
次々と化学的な知識が披露される。爆発物を作るにはあれとこれを混ぜればいいい、みたいなこと。そういうことに感心を持つ人はいる。知り合いで、高校生の時に花火をばらして火薬を溜め込んでそれを炬燵の上でうっとり眺めていたら爆発して失明しそうになったという人がいる。そんな人は確かにいる。

映画でも小説でもいいけれど、この物語の誰に感情移入する?ブラッド・ピットエドワード・ノートン?この映画は男の遺伝子に組み込まれた命令がどういうものかを解き明かす映画だけれど、女子が見たらマーラ・シンガーを演じたヘレナ・ボナム=カーターに心を寄せるのだろうか。
誰しも映画や小説、そういった物語に接して主人公に感情移入したりするものだが、自分はスペース・モンキーに乗り移った。タイラー・ダーデンが集めたファイト・クラブの会員たち。普段は整備工だったり給仕だったり清掃人だったりする奴ら。「リモートワークが意外と辛い」なんて貴族の愚痴にしか聞こえない奴ら。奴らの側に立ってしまう。
そんな身からすれば、もう改革なんて言葉は生ぬるい。何もかもぶっ壊れて欲しい。一回ひっくり返って欲しい。逆転。反転。そんなものを欲してる。だってそうでもないとずっとこのままだから。自力じゃどうにもならない。

奴らは資本主義に飽き飽きしていて、その制度の世界では浮かび上がることができないと絶望している。そして辿り着いたのが軍隊みたいなタイラーの騒乱プロジェクトの要員で、全体主義の駒になる。ああ絶望的だ。自由が欲しかったのに。ファシズムに組み込まれるなんて。でもそこに生き甲斐や、やり甲斐が見つかるのなら良いのかも知れない。大阪はそんな風に進んでる。大阪維新が全議席を独占して橋下徹閣下の命令が下れば皆右を向いて何も考えずに猪突猛進する。そのような一致団結、チームワークが必要なのかも知れない。だから維新を批判する言説は叩き潰してもいいし、合法かどうか、真実かどうかは目的の前ではそれほど重要ではない。辻褄が合ってなくても以前の主張と矛盾していても気にしない。気にする奴らは前を向いてない。そんな雰囲気。でも地方行政は野球チームではないから勝利至上主義ってわけでもないんじゃないですか?

映画と原作を読んで思ったのは、フィンチャーの映画の素晴らしさをあらためて感じた。原作にはこの物語の魅力が詰まっている。でもフィンチャーの映画はそれをとても理解り易く伝えている。

なんだかんだ言ってそこそこ楽しんだのでもう一冊パラニュークの本を買った。いつになったら読めるかは分からない。