保守主義とは何か/宇野重規 著

保守主義の源流から、その変遷、そして本邦における保守主義を概説する書。

 

先般『リベラルとは何か』という本を読んだ。そっちを読んだなら対立する側の言い分というか、保守の側の歴史にも目を通しておかないと具合が悪いだろう。そう思って読んでみた。

保守主義の起源は英国にあり、18世紀に起こった対岸でのフランス革命に対する批判として生まれたことが書かれている。「革命」というぐらいだから当時のフランスでは、急激な社会制度の変革があり、歴史的な連続性を断絶するほどの変化があったことから、そのようなものを批判し、それが欧州と英国に伝播する危険性を唱えた。確かに急激な変化と長い歴史が培ってきた制度を破壊すればそれを取り戻すことは難しいのだから慎重な態度でいることや、あまりにも熱狂的な急進派に対して警告を発することは有効だと思われる。

その後、社会主義からの防衛、福祉社会を目指す大きな政府に対する批判などを経て現在の保守主義が成立してきたことも書かれている。新書一冊分の内容では概要、概説としか言いようがないだろうが、それでも歴史のあらましを知るのには大変勉強になった。また『リベラルとは何か』を読んでいたことで、対立する政治思想である保守主義についても相対して理解することができた気がする。

確かに急激な変化より漸次的な改善や改良が良いと思われることはある。急激な変化に人々がついていけなかったり、慣習や慣行を軽視するべきではない。ましてや歴史に立脚してあるものを一時の思いつきで廃絶したり蔑ろにしたりするべきではない。そういう意味では誰しもが保守的な思考を持ち合わせているとも言える。

少し気になった部分を引用すると

社会心理学のジョナサン・ハイトは、アメリカ社会の左派と右派の分断について、イデオロギーや利害の対立ではなく、むしろ感情的な対立であるとして分析を試みている。(『社会はなぜ右と左に分かれるのか』)。ハイトによれば、人々は自らの道徳や政治的立場を、理性に基づく熟慮によって決定しているわけではない。重要なのは勘定による直感である。理屈づけや合理的説明は後からなされるが、最初からそのような理由で決めていると人々は錯覚してしまうのである

ハイトと同様、ヒースもまた保守主義の優位性を主張する。リベラルが政治を政策や計画の問題として理解しているのに対し、保守派政治を「勘」と「価値観」の問題として捉えている。選挙戦は人々の頭ではなく、心に訴えることで決まるという点をよく心得ているのは、保守の方である。

とある。

よく分かる。
皆そうだと思う。どちらかというと感情と感性が発動して政治的な姿勢を決定している。そして、その上で考えて自身の考えと姿勢を補強するような理論を編み出したり、そういう論者の意見を採用したりしていると思われる。何かしらの変革の提案は、それが社会にとって有用かどうかよりも自身の利益につながるかどうかという利己的な考えによって判断している。自分にもそういう面はある。

しかし、保守主義の源流であるエドワード・バークは選挙において当選した折に、選挙区民に対して自分は「英国国政全体に責任をもつべきであり、選挙区の特殊利害に拘束されるものではない」と演説した。自分を選出した選挙区に奉仕するのではなく、英国全体のことを考える役目を担うといったことを宣言していて、こういう意識が大事だろう。社会全体が良くなることが結局は自分にとっても良くなることで、自分だけに何かの利得が回ってくるような制度が良いわけではない。こういう考え方が保守の源流にあることはよく覚えておきたい。

対して、今の日本の保守とはどういう人たちだろうかと思うのだが、彼らに見られるのは「怯え」であるように思う。ジェンダーの問題に積極的でない彼らは、現実にある同性愛や性同一障害に目を向けず、古い男女の役割に固執していて色んなものが破壊されると怯えている。古い家族形態に戻せといった復古的な動きも新しい家族形態はもうすでにあるのにそれに目を塞ぎ家族が壊れると怯えている。彼らは一般に軍事的な増強を求めるが、それも外国から侵略されると怯えている。今の生活と地位がおびやかされると憂いて怯えている。
一般に法律の改正は、社会の変化に対して後追いである。既にもう現実社会が変化しているのに法律がそれに追いついていないから改正されたりする。
社会も流動的で変化し続けている。それなのに現実に目を背けて現状維持を訴えて己の地位と待遇に固執するような人物には歳をとってもなりたくないものだ。保守主義の意義を否定するわけではないが、頭の硬い年寄りにだけはなりたくない。