くらしのアナキズム/松村圭一郎 著

国家は何のためにあるのか?
ほんとうに必要なのか?
「国家なき社会」は絶望ではない。
希望と可能性を孕んでいる。
よりよく生きるきっかけとなる、〈問い〉と〈技法〉を人類学の視点からさぐる。 本書でとりあげる「人類学者によるアナキズム論」とは…
・国家がなくても無秩序にならない方法をとる
・常識だと思い込んでいることを、本当にそうなのか? と問い直す
・身の回りの問題を自分たちで解決するには何が必要かを考える

 アナキズム無政府主義という捉え方を覆す、画期的論考!

少し前に読んだ『地獄への潜入 白人至上主義者たちのダーク・ウェブカルチャー』という本には、人種差別主義者たちに抵抗する勢力としてアンティファと言われる人たちがいることが書かれていた。アンチ・ファシストを標榜する人たちで、日本でも中韓に差別的な党派のデモ行進などに駆けつけて、そのデモ行進と街宣活動を止めようとしている。
そのアンティファの思想的背景にはアナキズムがあると書かれていたのだが、アナキズムについては訳語で無政府主義と言われるくらいのことは分かっていても雰囲気だけでその中身はよく分かっていない。なのでこの『くらしのアナキズム』を手に取ってみた。

アナキズムの解説書というものではなく、アナキズムの考え方が人々の暮らしに役立つこともあるのではないか、外国の行政が行き届いていない地域では国家に頼らず人々の工夫で自治が成し遂げられていて、それは日本の地方の村にも同じような自治の形がある、それらはくらしの中でのアナキズムの実践ではないかということが綴られている。

印象的なのは対馬の村での寄り合いの話だ。学者が調査に必要な古文書を借りたいと申し出て、村の人々がそのことで話し合う。賛成の意見もあるし反対の意見もあるが、皆が言いたいことを言ったその後には古文書を貸し出すことに決まる。

要は、各員が言いたいことを言って、逆の立場の者の話もちゃんと聞けば、まあなんとなくではあっても、そして完全に同意ではないとはいえ、そこそこの結論に落ち着くということが書かれている。これはとてもよく分かる。
町内会の世話などをしていても、何かの議題について説明をして「それでは挙手で賛否をとります」では何かと納得感は低い。やはり言いたいことは言って貰った方が良い。繰り返しの議論だったり、方向性の違った意見が出たり、議題から派生しすぎた別の話が始まったり、と議論の効率という意味では良くはないのだが、それぞれ言いたいことを言って他の人の話も聞けば、ある程度のところに落ち着くということはある。でもそれは直接民主制で済むような小さなグループの話でしかない。

書いてあることには色々と肯くことが多い。しかしやはり、これがアナキズムの本道なのだろうかという疑問は残る。一度アナキズムの歴史に関する本を読んでみるべきだ。