リベラルとは何か/田中拓道 著

リベラルと呼ばれる思想がどこから来たのか、そして世界情勢と時代の変化によってどのように変遷して、現在は如何なる思想となっているのかを解説する本。

とても分かりやすく為になる本だった。

左翼という言葉があまりにも雑に使われているといつも思っている。特にネットでは、何もかも十把一絡げにして左翼と呼んでいるような表現によく出会う。ネット右翼のような荒唐無稽な論理の人たちから見れば全て左に見えるのだろうが、奴等はアホ過ぎて話にならないとしても、まともに政治を語ろうとしている人の文章でさえ左翼と左派とリベラルを混交して使っているのを見るとうんざりする。元々、右翼だとか左翼だとかそういう政治思想に関心がない人は多いから基礎的な知識が欠けているのだろうけれど、それを「分かってない」みたいに知識でマウントしたりするのは控えねばならない。しかしいい加減な言葉の使い方を放置するのはそれはそれで問題でもある。
とか言いつつ分かったようなことを言っている自分も、本書を読むと自分の理解していたリベラルと現代リベラルにも差異があって、自分の認識の仕方を修正すべきだということも思った。

概略を引用する

およそ17世紀の西欧に登場した近代の自由主義は、19世紀に入ると、もっぱら商工業ブルジョワジーの利益を代弁し、経済的な自由を唱える思想へと変質していった。20世紀の初めには、経済的な自由(放任)主義を批判し、国家が幅広い再配分を行うべきだと主張するリベラルな思想が現れる。第二次世界大戦後、欧米では左右両党派の間にリベラル・コンセンサスが成立する。国家が完全雇用政策と社会保障を担い(ケインズ主義的福祉国家)、個々人の自由な生活を補償することへの合意が生まれた。
 ところが先進国の経済が衰退していく1970年代以降、リベラル・コンセンサスは批判にさらされ、解体へと向かう。一方では、国家による画一的な分配を批判し、自由な市場を擁護する新自由主義が登場する。新自由主義は1980年代のイギリスやアメリカの政治で実践に移されていった。他方では、都市部の中産階級を中心として、価値の多元性と個人の自由なライフスタイルの選択を掲げる「文化的リベラル」が登場する。文化的リベラルが担った新しい社会運動によって、政治の世界には、文化的な価値観の違いにもとづくリベラルー保守という新しい対抗軸がもたらされた。
出典:『リベラルとは何か/田中拓道』P153

というようなリベラル史とでもいうべきものが解説されていて、とても勉強になった。こういう概略だけでなく本書を読んでその詳説を理解することをお勧めする。

自分の理解では
左翼=共産党日本共産党

左派=社会民主主義社民党

リベラル=政党に関わらず左派的な課題を問題視し重視する人たち

というような認識があったが、「左派」と「リベラル」については考えを改めた。
自分の考えは左派的なところもあるが右派的なところもある。左派的なところで言えば新自由主義に異を唱え、国家(行政)による再配分及び何らかの施策が必要だと感じている。ただし文化的には右派(保守派)的な部分もある。天皇制を支持しているし昨今のリベラルやフェミニズムの行き過ぎた言動には眉をひそめることも多い。

例示するならこれ

水着になる自由の為のパレードが「参加費1万円」とデマを流され、男性参加者は中傷受ける「キモいおじさん」「ペドフィリア」「買春者」 - Togetter

公共施設(プール)で行われるグラビアアイドルの水着撮影会が一部の申し入れで中止になったものに対しての抗議デモについて。
この問題で未成年がモデルとして出演していて破廉恥な写真を撮らせていただとか、この中止要請は共産党の議員の所為であるとか、それを決定したのは共産党ではないだとか、情報が錯綜しているのでそのことには踏み込まない。しかし中止されたことは事実で、そのことに抗議の声を上げるのは間違ってはいないと思う。そしてその支援者がデモに加わるのも間違っていない。その参加者がおじさんであろうがキモい男であろうがそれを問題にするのは間違っていて、目に余る言動がある。特に

当事者(水着撮影される側)がするデモなら応援するが、これは....笑

というもの。
例えば、差別に反対するデモに被差別者以外は参加してはいけないという法はない。寧ろ被差別者の側に立った被差別者でない人たちが参加するからこそ運動は広がるのだ。間違っている。

このように現代のリベラルの行き過ぎた、というか、破綻した論理を吐き出す自称リベラルにはうんざりしている。リベラルという考え方は自由を尊重するもののはずだ。それ故に多様性を尊重する。多様性のある社会はストレスフルなものでもある。何しろ、自分と考え方の違う人たちの意見も尊重しなければならないのだから。それなのに己の基準で「これは良いこれは駄目」などと断定するのは多様性というものを理解していない。法治というものも理解していない。

現代ではリベラルと排外主義ポピュリズムの対立が起こっているということも第五章で書かれている。排外主義ポピュリズムというのは移民排斥と既成政党は腐敗したエリートの集団でその対策を怠っていると主張する集団だ。これを読んだ時に瞬時に大阪維新を思い浮かべた。

以前、Twitter大阪維新に批判的なツイートをしたら支持者だろう人物からかなりしつこく絡まれて辟易した覚えがある。彼らは自分たち(大阪維新の支持者)と違う考え方の人間を許さず、排斥しようとする。ネトウヨが政府の政策に批判的な人を反日だと認定するように、大阪維新の支持者は彼らの政策を批判する人物は大阪人ではないと言う。彼らは更にエスカレートして大阪維新に批判的な人には「大阪から出ていけ」と言う。これはネトウヨが日本政府の政策に批判的な人に「文句があるなら日本から出ていけ」というのと相似形だ。大阪のような大都市に色んな人が色んな意見を持っていることを許さない。多様性なんて意識の縁にもない。全体主義のような同じ考え方の人間で一色になればお望みなのだろう。でもそういうものは大阪の良さではない。確かに彼らは排外主義ポピュリズムの亜種でそれがリベラルと対立している。

古典的な文献や考え方も例示されていて、そのようなものにも触れてみたいと思った。新書でそれほどページ数の多くない書籍だけれど学ぶところの多かった一冊だった。