この世の喜びよ/井戸川射子 著

ショッピングモールの喪服売り場の店員として働く女が主人公。向かいのゲームセンターで働く若い店員やそこにいつもいる老人、フードコートにいつもいる中学生の女子と関わり合いながら主人公は昔のことを思い出したりする。

第168回芥川賞受賞作。

 

何だったかでこの小説の評判が凄く良いと聞いて読んでみたくなった。前回の芥川受賞作であるから日本文学の最新の作品と言って良いのだと思う。

読んでみるとひとつひとつの文章が美しくて淡麗。そしてその文章群の織りなすこの小説がたおやかで美しいものだと思える。綺麗な糸で編まれた美しい布。

物語はショッピングモールの店員がそこに居合わせる人と触れ合い、そのことを契機として色んなことを回想すると言う内容で大きな物語が展開するわけではない。しかし派手で非日常的な物語は人の耳目を集めるだろうが、そういうものばかりでは困る。文学も時代の記録であり、その物語がいつ書かれたのかは時代とともにある。だから市井の人々の生活とそこで生まれる情感が描かれた作品が生まれなければ記録が残らなくなる。そういう意味でとても意義のある小説でそれが大きな賞を受賞しているということにも意味があると思う。そして、何気ない日常しか描かれていないのに、頁をめくらずにおられなくななったり、そこに感動があるというのは、作者の力量なのだろうとも思う。偉そうなことを言っているけれど文学作品を評価するような力量は自分にはないことも分かっている。

主人公を描くのに「あなたは」という二人称を用いて記述しているけれど、どちらかというと主人公のモノローグのような印象を持った。自分をいつも客観視していて自己や自我と切り離して自分を少し離れたところから見ているような達観した感じをこの主人公に感じた。対していつもフードコートにいる女子中学生が登場するが、彼女はそのような達観や客観性とは遠い、若く自意識が強いまだ幼さの残る少女で、その対比も良かったし、彼女を契機として主人公が子育てのことを回想する場面も興味深い。
今、眼の前で起こっている出来事と回想とが入り乱れながら日常が淡々と流れていって、そのような物語が生み出す空気感も心地良いものだった。

著者は詩人であるらしい。詩作も読んでみたい。