エルヴィス ’68カムバック・スペシャル/前田絢子 著

1968年にクリスマス特番としてテレビ放送された『エルヴィス』。後に『’68 カムバック・スペシャル』と言われ、エルヴィス・プレスリー復活の契機となったこの番組の裏側を描く書籍。

 

バズ・ラーマン監督作の映画『エルヴィス』を観て、ロックンロールの偉大な始祖の一人であるエルヴィス・プレスリーという人物のことを曖昧にしか知らなかったということに気付いた。なのでエルヴィスの伝記的なものを読みたいと思っていて、この本を手に取ったのでした。

書名は『エルヴィス ’68カムバック・スペシャル』となっているけれど、件のテレビ番組の裏側だけを描くものでなく、エルヴィスの生い立ちからデビューまでにどのような経緯があり、彼がどのように育って音楽を吸収していったかということもたっぷり描かれている。また、先に挙げた映画でも描かれていたけれど、若きエルヴィスが黒人ミュージシャンたちと関わり当時のブラックミュージックに心酔していたこと、そして当時の米国南部で白人がそのように振る舞うことの異質さや、人種隔離の実態、そして公民権運動といった社会のうねりがあったこと、この時代にこの番組が放送されたという意義も記されていて、大変勉強になった一冊だった。

以前、若いインフルエンサーの人が「なぜミュージシャンは左翼になるのか」といったことを解説していて、リベラルな主張とクリエイティブな作品との組み合わせは良く、逆に保守的な主張はアート作品と相性が良くないのではないかと語っていた。彼から見ればそういう風に見えるのだろうなと思いながら拝見した。

昨今の「リベラル」とか「左翼」という言葉は非常に雑に使われていて「それはリベラルではないでしょう?」とか「それも左翼に含むの?」と思うことがしばしばあるけれど、色んな意味を内包する曖昧な言葉の方が普及することは多々あって、「エモい」なんてその典型だと思う。
しかし言葉は移ろいゆくものだし、そうやって変化することで進化もすると思うので「日本語の乱れだ」みたいなことは言いたくない。ただ、AとA’の物もしくは現象があるのに、それぞれに言葉を与えず、どちらも一語で表してしまうというのは便利だけど語彙の低下だとは思うね。ちょっと話が脱線しました

ロックンロールについて。
ロックンロールというものの生い立ちは諸説あるものの、黒人音楽が出自であるということは紛れもない事実であり、当時の米国の黒人たちがおかれた立場というものも歴史的事実としてある。だから抑圧されたマイノリティたちが産んだ音楽を母として生まれた音楽であり、それが自由を希求するカウンターカルチャーの要素を持つことは必然なのだ。
「ミュージシャン」という大きな括りで語ってしまうとブレてしまうが、少なくとも「ロック」という音楽はそのような時代背景から生まれた音楽であり、その精神が継承されている。
しかし漂白は行われて、そのような背景も主張も取り払われて、ドラムとエレクトリックギターとベースというロックバンドの形式だけを受け継いでいる音楽も沢山ある。そういったものもそれなりの進化だとは思うし、それを楽しむことは悪いことではない。けれど、そのようなものにしか触れなかったせいで「音楽に政治を持ち込むな」といった主張をしたりするのは間違っている。

エルヴィスが音楽を吸収した時代は白人と黒人が分断されていて、後者は明らかに虐げられていた。そして白人が黒人の音楽を演奏することなど考えられないといった土地柄でもあった。そういう時代と場所でエルヴィスがやったことは明らかにPunkでありロックンロールの精神性の柱の一つとなっている。この本を読んで改めてそういうことが分かった。

音楽なんて難しい講釈を抜きに楽しめばいいと思うから、そういう歴史だとか精神性だとかを「知っているべき」だとは言わないし、そういう音楽の聞き方や楽しみ方もありだと思う。実際、クラシックなどは曲の背景を知らなくても美しいと思えるし、そちらの方面に自分は疎いから知識を持たないまま聴くことの方が多い。
でも知ってると色んなことが見えてきて奥深く楽しめるようになるということも事実。そういう意味で良い本だったと思うし、とても勉強になった一冊だった。