三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実

2020年、日本、豊島圭介監督

1969年に東大駒場キャンパスで行われた三島由紀夫と東大全共闘による討論会のドキュメンタリー。

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学生運動の歴史というものは様々な事件や派閥などが入り組んでいて、それを知ろうとするのは手に負えない。少し前に読んだ『対論 1968』という本も学生運動の時代についての本だったが、一冊の本を読み終えたくらいではとてもではないが知識が頭に入ってこない。難解過ぎる。

映画を観る前には、左翼の全共闘と右翼の三島由紀夫の討論会となればとても危険なものだったのだろう、と思っていたが、意外と和やかな場面もある。これは三島由紀夫が礼節を失わず若い者に飯伏高にふるまうような人ではなかったからだろう。対する学生たちも、とても歩み寄れるような思想の持ち主ではない三島という大作家を自分たちのところに招聘するのだから大したものだ。両者共に肝が座っている。

この討論会の聴衆である学生たちや学生運動に参加した人たちが、当時の若者の象徴でもないし、当時の若者たちは皆こんな風だったのだとも思わない。しかし知識を持ち、知的に振る舞うことが若い人たちにとって格好良いとされた時代であったのではないかと思う。
対して今はどうだろう。そういう人たちもまだまだいるだろうが、なんだか知識人だというだけで目の敵にして、寧ろ庶民的である方が良いというような風潮はないだろうか。

政治家にも庶民的であることを求める。聞き慣れない言葉を使って文章を綴る者には「分りやすく書け!」と罵声を浴びせる。インフルエンサーは詭弁と揶揄で何かを言ったような振りをする。思想家や学者は大切にされず、薄っぺらい自己啓発書のような言葉ばかりが珍重される。文学は売れず、何かの引用には少年漫画が引用される。随分薄っぺらい時代になっているのではないかと思ってしまう。

映画を観ていて思ったが、学生と三島の間に敬意みたいなものがあるのが感じられる。学生が声を荒らげたり、三島を殴りたいと言ったりする場面はあるが、互いの言葉に耳を傾け理解しようとしている。現代のネトウヨやリベラルが互いにこのように敬意を持って接することができるのだろうかと思うと、そういう面では随分野蛮な時代になったのかも知れないとも思う。しかし当時も右翼学生と左翼学生は殴り合っていたのだから同じか。ずっと変わらないままなのかも知れない。
相変わらず右だとか左だとか言って敵対勢力を憎んで目の敵にしている。でもこの時代にはもう少し知的であるべきだという意識がある気がする。今は逆じゃないだろうか。

SNSはてなの匿名ダイアリーなどを見ていても、目に余るような幼稚な意見を堂々と表明していて、情けなくなる。そんなことでいいのかと思う。

俺は自由と多様性を尊重しているから、奴らに「そんなことを書くな」とは言わない。どんな軽薄な意見も稚拙な考えも、それを表明する自由があると思うから。しかしその所為で、インターネットで交わされる言葉の空間がどんどん愚かななものになっていくのを傍観しているしかない。