Winny

2023年、日本、松本優作監督作

ファイル交換ソフトWinnyを作成したことで逮捕され罪に問われた金子優氏の裁判闘争を描く映画。

www.youtube.com

インターネットに初めて触れた瞬間のことは覚えていないけれど、いつ頃から自宅で使い始めたかは覚えている。それまで幾つかのパーソナル・コンピュータを使っていて、象徴的なパーソナル・コンピューターを手に入れた年を覚えているから。
それはiMacG3。
1998年発売で、予約して手に入れた。それまでもMac製品のデザインは評価が高くて、ディスプレイ一体型のiMacは広告を見た瞬間から格好良かった。
だからWinnyが公開された2002年にはインターネットユーザーだった。2001年のアメリ同時多発テロでワールドトレードセンターに飛行機が激突したニュースが速報で流れた時にチャットをしていて「俺の米国株はどうなるんだ!」って絶叫していたユーザーがいたことをはっきりと覚えている。
でもWinnyに触れることはなかった。2ちゃんねるみたいなところを閲覧したりすることがあまりなかったからかも知れない。

そんな立場なのでWinnyというソフトにも金子勇という人にもあまり思い入れはない。なんとなくしかその存在を知らなかった。P2Pという言葉の意味も意義もあまりよく分かっていなかった。

少し検索するとここに分りやすく書いてあった。

rna.hatenadiary.jp

 

少し引用する。

その違いは大きく分けて以下の三つ。

Winny は一度流通した違法コンテンツの削除がほぼ不可能
Winny は違法コンテンツの放流を自制しにくい仕組みになっている
Winny は権利侵害の防止策についての交渉が困難あるいは交渉する意味がない

Winny はネットワークが自律的に持続し、ユーザが望むコンテンツが流通し続けるように強く方向付けられたアーキテクチャになっている。この事が一度権利侵害が起きたとき被害の回復と拡大防止を極めて困難にしている。

一方で YouTube は運営者がコンテンツの流通をコントロールできるアーキテクチャを採用している。被害者の申告に従い削除(公開停止)できるし、ポルノ動画などは規約違反が明らかなので自主的に削除している。最悪の場合は廃業することで流通を止めることもできる。

Youtubeを例としてWinnyの違いを解説してくれている。
映画の中でも、今回の逮捕は、新しい発想を具現化し発表することに技術者が消極的になるのではないか、といったことが描かれていた。確かにそう思う。ソフトウェア分野ではないが自分も一応は元技術者だったので、そういう弁護は嬉しいと思う。しかし技術者であれば工学倫理というものがあって、如何に新しい発想で今までにはないものが作れるとしても工学倫理に基づいて判断しなければ真っ当な技術者とは言えないだろう。危険性や悪用される懸念があれば慎重であるべきだ。
しかし広く一般に公開されるソフトウェアは、予期せぬ使い方をされるということもあるだろうし難しい。金子氏はある程度違法なデータのやり取りに使われることを予想していたという見方もあるらしいけれど。
TwitteのようなSNSを作った技術者も今あるネットリンチみたいなことまで予想していただろうか。ザッカーバーグFacebookの使われ方に予想していないものがあったということはフィンチャーの映画『ソーシャル・ネットワーク』にあったように思っているのだが。
どれもこれも今現在から過去を見ているから言えることであって、その時自分がその立場だったら何もかも見据えて行動できたとはとても思えない。

映画はまあまあ面白かった。邦画だと少し評価が辛くなるという自覚はあるけれど、それでも「まあまあ面白かった」というのが正直な感想だ。
もう少し起伏があって盛り上がる場面があっても良かったんじゃないのか、劇的な絵で見せる場面があっても良かったんじゃないのかとも思うが、そのような扇情的な演出に頼らず淡々と事態の成り行きを見せるという演出によって得られるものもあっただろうから、どちらが良いと一概に言える気もしない。それでも法廷でのやりとりは胸のすくような場面もあり楽しんだ。

最近、野球選手の大谷翔平選手の顔つきが幼いだとかワルさが足りない、みたいな話があって、くだらないことで張り合うものだと思ったけれど、映画だと俳優陣の顔というのはやはり味になる。
渡辺いっけいが演じた刑事は狡猾さが顔つきで表現されていたし、優秀な弁護士を演じた吹越満は周到で一筋縄ではいかない手強さがあった。どちらも清らかなだけでなく、清濁併せ持つ大人の深みがあって見ごたえがあった。渋川清彦も良かったね。
主任弁護士を演じた三浦貴大さんが良いと思って観ていたけれど、この方は三浦友和さんと山栗百恵さんの息子さんというサラブレッドらしい。知らなかった。芸能事情に疎いもので。

あと、やはり映画で技術的価値みたいものを描くのはやっぱり難しいのだなということも思った。
技術的な価値というものは視覚に訴えるものではなく、その技術が如何に凄いかを知らなければその価値に気付くことができない。それまでの技術水準を知っているからこそ、新しい技術に対する驚きや喜びがある。でも映画は映像と音響で表現する物語で時間も2時間程度という制約がある。それを知ってもらおうとすれば言葉で埋め尽くすようなものになってしまうのではないだろうか。機械や建築であれば視覚に訴える部分もあるだろうが、ソフトウェアなんてその中身を見ても素人には何がなんだか分からない。だから結局、暗闇で光るディスプレイを前にしてキーボードをカタカタやっているみたいな定形の表現に収まってしまうのだろうな等とも思ったりした。

警察や検察の瑕疵を訴える映画だったけれど、よくこんな映画がシネコンで公開されたなという感慨もあった。ミニシアターでひっそりと上映されるような題材なのに。こういう映画が広く観られて米国映画のように社会派の邦画作品がこれからも続けて作られるようになれば、それはとてもいいことだろうとも思ったりしたのだった。