家族と国家は共謀する/信田さよ子 著

長年、臨床心理の現場でアルコール依存症摂食障害、DV、などのカウンセリングを行ってきた著者による、それらの構造を読み解く本。

 

様々な暴力の連鎖が描かれている。夫から妻、母から子へ、家庭内でより弱い者へ暴力が引き継がれること、そしてそれらが家族というベールで隠されてきたこと、そしてDVや児童虐待モラハラといった言葉が定着することによってそれらが明るみになってきた経緯などが記されている。

また長年、現場で先人がいないところで苦労してきた足跡とカウンセリングの発展と進化の経緯も語られ、PTSDといったものが米国でベトナム帰還兵の精神的なケアとして発展、普及していったということも書かれている。
そして太平洋戦争でも同じように兵士たちは心に傷を負ったが、日本国は彼らを精神病院に閉じ込めるだけで蓋をしてきたこと、そして家族の元へ帰った兵士たちもやはり戦場の記憶に苛まれアルコールに溺れ、家族内でのより弱い者である妻や子供への暴力があったこと等など、読んでいて辛くなるが、そういうつらい思いをしてきた人たちの治癒にあたってきた人の言葉となると重い。
そして国家が権力によって国民に暴力を強いる戦争と、家族の間でも父権という権力によって弱者へ暴力が移譲されること、そして兵士の精神的被害を精神病院に閉じ込めてなかったようにしてしまうことと家族という単位で暴力や虐待を隠してしまうということの構造的な相似も指摘している。
非常に内容の濃い本で、この分野に明るくもないので読み取れていない箇所も多いのだろうと思う。

少し気になった箇所を。自己肯定感について少し引用する。

評論家の加藤典洋によれば、村上春樹が登場したもっとも根底的な意味は「否定性の時代」から「肯定性の時代」への変化を先取りしたことにあるという(『村上春樹は、むずかしい』岩波新書、2015年)。戦後知識人および作家たちは、自己否定をかいくぐることで成長するという否定正を価値あるものとした。私もその世代としてよくわかるが、暗いこと、否定することこそ、弁証法的にとらえれば肯定性に至るもっとも確実な道だった。明るいことは単にバカであることの証明であり、肯定することは表層的で施策しないことの表れだったからだ。

(中略)

しかし「自己肯定感」をカウンセリングでもちいることを私はしない。それは否定性への回帰を望んでいるからではなく、新自由主義的自己そのものを表していると思うからだ。あらゆる失敗、あらゆる挫折、友人関係の衝突の理由・背景を考える際の回路が、まるでブーメランのように最後は自分に跳ね返るように仕組まれているのが新自由主義の根幹だとすれば、その象徴としての言葉が、自己肯定感なのだ。

これは自分の実感とも一致する。自己肯定感が称揚され自己の内面を見つめるという内省的な行為が暗くネガティブな態度とされ忌避されていった感じを持っている。それはポジティブという言葉の無批判な信仰で、ネガティブという言葉をレッテル貼りし悪魔の所業のように排斥し嫌悪する態度にも見られる。そしてポジティブを全面的に謳う自己啓発書やビジネス書を読んでいる、起業や成長や前進、進歩といった耳馴染みの良い言葉しか使わない態度の彼らが、一秒も自身の内面や他者の側に視点を移動することをせず自己責任論を振りかざす姿と似ている。
起業家と名乗る人が口を滑らせて自己責任論を振りかざす例など幾らでもある。しかしその意見をTwitterに書き込む前に一瞬でもいいから考えてみない。少しの時間でいいから自己の内面に目を向けて自身の考えを点検してみればいいのに。
でもそれをしない。彼らは自分たちへの賛同はポジティブな行いだが、批判はネガティブな行為だと頑なに信じているから何を言っても聞く耳は持っていない。

そして、インターネットで差別意識をむき出しにする人々も、被差別の側にたってみるという視点の移動がまったくできないタイプの人たちだ。内面に矛盾をはらんでいることを全く気にしない。すべて新興宗教ポジティブ教の狂信者の振る舞いだ。

強者から弱者へ抑圧と暴力が連鎖することを知らなければならないし忘れてはならない。しかし自己肯定感が肥大して自己の内面に目を向けることができず、そのことを寧ろ良いことだと思っているような人たちは、そんな暗い話より成長、学び、前進、投資、起業なのだろう。そういう人が沢山この世界には居る。それが現状だ。