おらおらでひとりいぐも/若竹千佐子 著
74歳、老齢の女性のモノローグが東北弁で綴られる小説。
方言を恥ずかしいものだとあまり思ったことがない。関西弁を普段話しているのだから地方人の方言話者なのだけれど、標準語に比べて自分達が話す言葉が劣っていると思ったことがない。寧ろ標準語では表現できないニュアンスが自分達の言葉では表現できたりするとさえ思っている。
一例を挙げると「よう言わんわ」という言葉の響きを聞くとちょっと可笑しい。標準語にするなら「あきれてものも言えない」になるだろうか。
何がしかの失敗があって、上司であったり親であったりといった上位の者へ「失敗しました」という報告をした際に相手からこの言葉が返ってくるが、「あきれてものも言えない」の固さや憤りが内包されている感じに比べて「よう言わんわ」には報告を聞いた者の脱力感が充満していると思う。空気でパンパンになった風船と完全に気が抜けた風船くらいの違いがあって柔らかさがあると思う。
同僚が「よう言わんわ」などと言われて直立不動でうなだれてそれを聞いている景色を見ると「あ、怒られてはる」と思ってちょっと可笑しくなる。自分が言われるのは極力避けたい。
作中で主人公の桃子さんは、子供の頃に
そもそも、桃子さんが東北弁を強烈に意識しだしたのは小学生のとき、一人称の発声においてであった。それまでは何の不思議もなく周りのみんなと同じく、おら、と言っていた。性差など関係なかった。それが教科書で僕という言葉やわたしという言葉を知ったときの、おやっという感覚。おら、という言葉がずいぶん田舎じみてというか、はっきり言えばかっこわるく感じられた。
と思っている。
関西には近畿以西の出身者が多くて、東北出身という人には滅多に出会うことがないのです。なので東北の人たちが自分たちの方言をどう思っているのか、生の声を聞いたことはないけれど、なんとなく自分たちの言葉を恥ずかしいと思っているということは想像に難くない。それこそ「田舎じみている」と思っているような。
それは都会が格好良くて地方(田舎)は格好悪いという植え付けられた観念なのだと思うけれど、メディアの人たちは皆都会に住んでいて、その感覚が至る所から滲み出ているので自然と植え付けられるのも仕方ない。関西というのは京阪神と連なる、地方ではあっても田舎ではない土地だからそんなコンプレックスを抱えずにいられたのかも知れない、と我が身を振り返って思ったりもする。
作中で語られる東北弁のリズムもニュアンスも読みとれないところは多々あるけれど、それでも読んでいて心地良い。方言で語られることによって血が通っている感じがして、架空の人物でなく実際に存在している誰かの言葉であるように感じられる。無名のブロガーが書いた日記などを読んで、それが美文でなくても、確かに日本のどこかにいる人が今それを書いているという現実感があるような感じ。血肉が通った言葉、文章というものの何が良いのかは分からないけれど。
主人公の桃子さんの頭の中で色んな会話や思索や想い出が繰り広げられる小説で、主人公の行動はと言えば、お墓参りに行ったり病院に行ったりと地味なことこの上ない。
映画化されるらしけいれど、本作をどんな風に映画にするのだろう。
優秀な映画は構図や色合いや背景の調度品であったり、それこそ俳優の表情や仕草で内面を表現したりするもので、簡便にやってしまうと今頭の中にあることを台詞で表現したりする。刑事の役に「きっとあいつが犯人に違いない」と言わせるのは簡単なことだが、そう思っていることを演出と演技で表現するのが映画だと思う。
田中裕子さんという演技派の女優さんが主演なのでこの小説がどんな映画になるのかちょっと期待している。