民宿雪国/樋口毅宏 著

新潟県のさほど観光地でもない場所に民宿雪国があった。その主人は数奇な運命を辿った男で、その人生が少しずつ解き明かされる。

 

『中野正彦の昭和九十二年』という著者の新刊が回収となったらしい。

https://www.j-cast.com/2022/12/19452723.html?p=all

樋口毅宏氏の著作は『ルックバック・イン・アンガー』を読んで大層感動した記憶がある。『さらば雑司ヶ谷』も読んでいるはずだ。でもその他の著作には手を出せないでいた。

回収騒ぎがある前からTwitterで黒田編集というアカウントが、『中野正彦の昭和九十二年』には差別的な表現があるので刊行を検討すべきだ、というような出版社内部の内実を漏らしていたので気になっていた。

回収のニュースが流れてきたが、ネット書店の「ほしい本」リストに追加するくらいには楽しみにしていたので、もしかしてうっかり売り場に並んでいたりしないだろうかと思い、当日は書店に行ってみた。でも一冊も並んでいなかった。書店の検索機でも「現在お取り扱いできません」となっていた。ちゃんとしてる。システマチック。なのでこの『民宿北国』を手にとって帰ってきたのだった。

偽史というか偽伝記というか、架空の著名な画家であり民宿の主であった男の生涯を辿るミステリーのような物語になっているが、エロとグロテスクが頻出する。それはインモラルな性であったり、暴力と殺人であったりする。

そのようなものに耐性がない人は読むべきでないだろう。恐らく気分が悪いだけだから。でも自分はその物語を楽しんだ。多少の嫌悪感はもちろんあったけれど、背徳感というか怖いもの見たさの気分もあった。しかしこの辺りがぎりぎりの線だと思う。これよりグロテスクなものは読むことができない。
以前『消された一家―北九州・連続監禁殺人事件』という本を読んであまりのおぞましさに途中で読むのをやめてしまった。それ以上読むとなにかが心のなかで決壊しそうな気がした。現実の犯罪のルポだったからだというのもあったと思う。連続殺人鬼や猟奇殺人の記事や書籍は人間の狂気の縁を覗いてみたいという興味で読んでしまうが、さすがにあれはダメだった。

朝鮮半島を出自とする人物が登場する。その人物に対する差別的な事柄も記述される。しかしそのような差別が現実にあったことを表していて、その人物の人格形成に影響があったことが物語には重要な意味がある。
わざわざ単行本のあとがきが転載されており、そこで著者は

誤解を受けたくないのでここで名言しておきます。私は差別を助長するためにこの物語を書いたわけでは絶対にありません。

と書いている。

小説を読み終えた後にこれを読んで、これを書いておかないと誤解するバカがいる世界に心の底からうんざりした。
以前から思っているが、テレビの世界では喫煙者が煙草を吸っている姿を放送するのはいけないことらしく、そのようなものは放送されないらしいが、現実に喫煙者はいるのにそれを映してはいけないというのは現実を描写することを放棄したようなものだろう。そんな見た目の良い耳心地の良いものしか描けないのならば、それはファンタジーでしかない。テレビのゴールデンタイムは老若男女が見ているのだから、わざわざ喫煙者を子供に見せる必要もないだろうから百歩譲ってそれでもいいとしても、文学でそんな注釈をつけないといけないとは。あらゆる商品に取扱い上の注意として奇想天外な使用法を戒める文言が付記されているのと同じじゃないだろうか。まったく世知辛いことこの上ない。

三章の「私たちが「雪国」で働いていた頃」に登場する人物はホテルニュージャパンの横井英樹のことだろう。設備不良のホテルで起こった火災事件で死者を出したにも関わらず守銭奴であることを隠さずのらりくらりと責任を逃れようとした人物だ。

他にも日本軍の行いやアート界隈の胡散臭さなど、この世界の地獄のような腐臭が描かれている。勿論、小説であるからあり得ないような地獄の世界を描いているのだけれど、現実に地獄があって、それを小説の形で描くことさえしないのならそんなものはファンタジーでしかない。

民宿雪国』を読み終えて著者の他の作品も読んでみようと今日の夕刻に書店を訪れたが、一冊も売り場に並んでいなかった。回収騒ぎで逆に話題になり売り切れていたのだろうか。