東京2020オリンピック SIDE:A

2022年、日本、河瀬直美 監督作

2020年に開催された東京オリンピックの記録映画。

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詩のように美しい映画だった。少し感動してしまった。

 

東京オリンピック開催までにはかなりのゴタゴタがあった。もういっぱいあり過ぎて、今からその記事を拾い出して、こんなこともあった、あんなこともあった、と書き出す気も起こらない。面倒くさい。

そしてこの映画が公開されるまでには、河瀬監督にも色んなことがあった。思い出せる範囲では、スタッフへの暴行、大学での挨拶(祝辞?)が批判されたり、製作の裏側を描いたテレビ番組では虚偽の内容があったとか、他にもあったのかも知れないけど、もう覚えてない。覚えておくのも面倒くさい。

 

河瀬監督の映画は一本も観ていない。評価の高い監督だから映画の好きな身としては「観ておかないと」とは思いつつも食指が動かなかった。ひとつには、河瀬監督は京都のFMラジオ、αSTATIONで日曜日の夕方の時間に番組を持っていて、それを何気なく聴くことが多かったのだけれど、いつも「ああ、この人はなんだか好きじゃない」と思って聴くのを止めてしまうことが多かったから。なぜ好きじゃないのかということを、番組を聴きながら考えたこともあって、彼女の語りには自画自賛がとても多く含まれているのが「なんだかなあ」という気持ちにさせるのだろうと思っていた。今もその印象は変わらない。

「俺はこんな凄いことをやってのけたのだ」というあからさまな自慢話は、流石に酔ったおっさんが酒場で気炎をあげているような場面でしか見たことがない。俺が俺が、みたいな人もちょっと恥ずかしい。明石家さんまさんのことも一時期そんな人だと思っていて少し嫌いだったこともあるから。あの人はナチュラルにそうなのか、そうすることが愚かしいことで可笑しさに繋がるから笑いとしてやってるのかもよく分からないところがあるけれど、今は中堅芸人に「またさんまさんが自分のことを話しだした」とやんわりつっこまれて笑いになっていて、その時のちょっと照れているさんまさんは愛らしい。

河瀬さんのDJは、そんな風な自慢話でもないし、俺が俺がアピールでもないのだけれど、さり気なく「わたしたちはすばらしいことをやっています」みたいな主張が随所に感じとられて、まあ確かに結果を残してる人ではあるけれどちょっとね、という感じになってしまった。アピールってのは大事ですけれども。

なので今作公開前に、炎上の狼煙が幾つも上がる度に監督作を一本も観たことがないのを思い出して「近寄るべきでない人には近寄らないようにセンサーが働いたのかもな」と思ったりしていた。

 

今作もあまり観たいと思っていなかった。東京オリンピック開催前には「こんな状況でやらんでも」と思っていたけれど「どうせやるんだろうな」とも思っていた。お役所仕事はいったん動き出したら止まらない国だから。負けると分かっていた戦争さえ止められなかった国だから。
なのでオリンピック自体も全く見ていない。テレビを持っていないことが一番の要因だけれど、職場でも殆ど話題になっていなかった。「ああ、やってるんですか」とか「もう終わったの?」くらいの感想しかなかった。個々の競技でどんな盛り上がりがあったかも全く知らずにいた。

 

そんな感じだったけれど、幾つもの不祥事や炎上が数え切れないほどあって、逆に「どういう映画になっているのだろう」という興味を持った。前回の東京オリンピックの記録映画は市川崑が監督していて、ずっとずっと前に一度見ただけだけれど、美しかったという印象が強く残っていて、さて今回は、という関心もあった。

 

映画を観た感想は冒頭に書いたように、詩のように美しい映画だった。

詩というものは、例えば俳句とか短歌のようなものだと、その定形という制約があるので言葉を連ねて表現ができない。しかしその制約ゆえに削ぎ落とした言葉で伝えることで余白が沢山あって美しさがある。そのような定型詩でなくとも5W1Hのようなものを明確に記さない、事細かに描写しないことで、写真であればフィルターのかかったような、ぼんやりと曖昧だけれど美しさがあったりする。

同じように、この映画でも、映像にナレーションで細かくその状況を付け加えたりしない。説明が殆どなく映像だけで映画は進む。優しい木漏れ日の映像の後にアスリートが映し出されれば、それがモンタージュ効果だとは分かっていても美しいと思ってしまう。ただ、清らかな水の中から水面を見上げるような神秘的な映像に続いてトライアスロンの競技が始まった時は「競技会場となる海は下水が流れ込んでいて汚い」みたいな報道があったことを思い出して、ちょっとやりすぎなんじゃないかと思って可笑しかった。

無観客の競技会場もその静けさが新鮮で、殆ど音楽もなく、それが逆に神秘的な印象になっていた。こんな光景はめったに見られるものじゃない、という驚きもあった。

オリンピックの反対デモも映し出されて、そのようなことがなかったかのように作られた映画でもなく、逆に開催を推進した人たちを英雄視するようなものでもなかった。女性監督であるからなのか、女性のアスリートたちと家族との関わりを描いたエピソードも挿入されていて、それも良かった。女性は妊娠すると競技どころではないわけで、そのような視点は男性の監督だったら描けなかったかも知れない。

 

説明のない映像で語る映画だったけれど、表彰台が映し出されたのも数えるほどだった。競技者が登場し、その背景が断片的に描かれるが、その成績が描かれない場面もあったように思う。「で、この選手は結局メダルをとったの?とらなかったの?」と思った箇所があり、メダルの数を競うオリンピック報道を馬鹿らしいと思っていたのに、自分も結局興味の対象はそこにあるのかということにも気付いてしまった。成績をはっきり表現しないのは結果が大事ではないというメッセージなのか、もう競技を観ていた皆さんならご存知ですよね、ということなのか、どっちなのか分からない。後者だとすれば、競技を観ていなかったということは『トップガン』を観ずに『マーベリック』を観に行ったような状態なので、まあそれはこっちの責任なので仕方ないかなとも思う。

 

つらつらと書いてみたけれど『SIDE:A』は観て、とても良かった。映像美に溢れた映画で少し元気がでた。6月になってから気が抜けたように腑抜けになっていたから。

『SIDE:B』が続けて公開されるらしいけれど、もういいんじゃないだろうか。ごたごたの部分を描くのだろうか。もう美しい思い出として終わってもいいんじゃないだろうか。

 

腑抜けで思い出したけれど、この映画の公式Webサイトの腑抜けっぷりは異常ではないだろうか。やる気のかけらも見られない。「お知らせ」という新着情報を載せる部分以外は、映画館に置いてあるチラシ以上の情報は何もない。と思ってチラシを引っ張りだしてみたら、本当にチラシの裏と表そのままだった。なんでこんなしょうもない公式サイトになっているのだろう。予算を使いすぎてお金がなくなってしまったのだろうか。

tokyo2020-officialfilm.jp