山椒魚/井伏鱒二 著

井伏鱒二の短編集

 
沢山の文学家や作家の著した文章についての書籍を読んでいたら、井伏鱒二の書く文章は名文である、というようなことがあちこちに出てくる。様々な、それも文章を紡ぐのに練達した作家たちがそれほどまでに褒めそやすのならばちゃんと読んでみなければ、そう思って新潮文庫を手にとった。

 

感想としては、収録されている『言葉について』という一遍に少しの驚きを持った。その感想とは、これはつげ義春ではないか、というもの。

 

『言葉について』という短編を少し紹介すると、日本海の××島に旅行で訪れた主人公が出会った少女の話になる。彼女は、容姿は可憐であるが、言葉が内地の人間からすればとてもぶっきらぼうでバランスを欠いた感じがある。彼女は小さな宿屋で働いており、客があるときは学校にも行かずに仕事をこなしているが、それでも宿題や課題などはあり苦心している。また、そんな彼女を不当に扱う男子が学校にはいるらしい。そんな話のあちこちに旅情とめぐまれない境遇の寂しさや、それに気付いていない少女の無垢が感じられて、得も言われない情感がある。でもこれを読んだときに思ったのは、つげ義春の『紅い花』ではないか、というのが感想だった。

 

つげ義春の『紅い花』は、渓谷に訪れた旅客である主人公が粗末な茶屋を営む少女のキクチ・サヨコと出会い、彼女にいけずをする男子の紹介で釣行をするという話になる。

井伏の作品とつげの作品には登場人物の類似点があり、どちらも少女は容姿に似合わぬ言葉遣いをし、彼女にいじわるをする同級の男子がいる。そしてどちらも主人公は旅客である。

 

似ている、と言ってしまえばそれだけだけれど、以前にどの本だったかで、つげ義春井伏鱒二の小説を好んで読んでいるということを読んだことがある。だから井伏のこの短編を読んで、その枠組みを借りて別の物語を紡いだということなのだろう。『紅い花』は少女の身体的な成長(成熟)みたいなことが描かれているけれど、井伏作品にそれは皆無なのだから。

 

村上春樹の熱心な読者ではないのだけれど、氏の『カンガルー日和』というものを読んだ時にとても面白かったのを思い出した。ごく短い短編が収められている短編集なのだけれど、それこそ物語の端緒といったものしか書かれていない。小説のアイデアだけが収められているような短編集で、これを膨らませれば面白いお話がひとつできるだろうに、と妄想した。要は書かれていない続きが頭の中で渦巻いた。

つげ義春も井伏の作品に触発されて続きを描いたのだろう。そういうことってあると思う。

 

ネットで検索すると井伏作品とつげ作品の類似に気付いた人が何人もいるみたい。そういうことが知られるだけでもインターネットの恩恵はあると思う。

 

文章の巧拙についてはよく分からない。たぶん井伏鱒二という人は魅力的な人なのだろう。会って話をすると多くの人がそう思ってしまうような。言葉によって人格が滲み出すのだから、よい言葉を紡ぐにはよい人であるのが最善なのだと思う。