ジャパノイズ サーキュレーションの終焉/デヴィッド・ノヴァック 著

90年代に北米で注目され、独自の理想の音楽を実践する世界として「ジャパノイズ」と呼ばれるようになった、日本のアンダーグラウンド・ノイズ・ミュージック。ノイズの多様性に、そのありのままの創造性に迫る、日本の第一線で活躍するノイジシャンと興隆を持つ民族音楽/人類学の研究者による、10年に渡るフィールドワークの成果。

右は原書、左はその翻訳で今回読んだもの。
原書が出たときにも手に入れていたけれど自分の英語力では一行も読み進めることができませんでした。

最初に「ジャパノイズ」というものを説明しておくと、90年代に勃興した日本製のノイズミュージックです。各国にノイズミュージックのミュージシャンはいましたけれど、日本のアーティスト、グループのものが特異であったので外国で注目されて「ジャパノイズ」といった呼称で呼ばれたのです。
ノイズミュージックとは何?と言われる向きには、このブログのタグを遡って読んでもらうか、それこそ、そのワードで動画サイトでも検索すればいいんじゃないでしょうか。それだけではあまりにも不親切かも知れないのでMASONNAの動画を貼っておきます。

www.youtube.com

格好良いですね。

本書ではジャパノイズの起源と、その興隆にカセットカルチャーやメールアートが関与したことが書かれています。そしてノイズとは音楽なのか?それとも他の何かなのか?といったことも書かれています。関西ノイズのミュージシャンたちの言葉も色々と収録されています。
学術論文ということなので少し難解かも知れないけれど、かつて日本産の音楽が世界に注目されたという事実を知る向きには読んで損をしない内容だと思います。日本のミュージシャンが世界で認められた!みたいなのが好きな人って多いんでしょ?

この本の意義として、かつて日本のノイズミュージックが世界を席巻したという事実が書籍の形として残るという意義があると思います。スタジオボイスがノイズの特集号を出したりしたことはあるけれど、本国である日本でも殆どの人が知らないことでしょうから。でも知られなくてもそれはあったのです。

第一章では『ライブ性とデッド性』というものが記されています。そうなんです。ノイズはライブこそが最高なのです。部屋のスピーカーで聴いたりヘッドフォンでその音の粒子を事細かく観察するように聴くのも良いのですが、現場で音を浴びるように体験するとその楽しさが分かります。雑音を奏でるのにライブアクションは不要かもしれないけれどMASONNAのライブを見ればその考えは更新されるでしょう。そして、次々と繰り出される電子音によるサイケデリックな即興演奏は、ライブでお気に入りのあの曲を演奏してくれるロックバンドの演奏とは違うことが分かるでしょう。

ここ数日は山下達郎氏と彼の所属事務所についての話題が多く取り上げられています。芸能の話題でもありつつ音楽の話題でもある。そして性加害と被害の話でもある、と要点が錯綜しています。
音楽業界という大きな括りで、そこに関わる人たちが全て何かの踏み絵をせまられているかのような状況ですが、そんなものとノイズは関係ないのです。ノイズだけは蚊帳の外なのです。それでいいのです。
ノイズというものが音楽かどうかなんてどうでもいいのです。反音楽かどうかさえどうでもいいのです。商業主義とも無縁です。海外で認められたからどうだということでもないのです。あんなの音楽じゃない、といった批判はかすりもしていないのです。だってそんなことはどうでもいいのだから。何もかも関係ないのです。ノイズはノイズでしかないのです。聴いて何も感じなければそれまでだし、感じるものがあればそのまま泥沼に引き込まれればいいだけなのです。あらゆるものに関係ない。でも関係ないという関係があるのです。めくるめく電子雑音が快楽として受け止められるのならば聴けばいいし、そうでないのならJ-POPでも聴けばいいのです。メロディも和声もリズムもないけれど、そこに音の快楽と音の迫力を聞き取れるのならば聴けばいいのです。ただそれだけです。ノイズというものはそういうものだと思います。