カッコーが鳴くあの一瞬/残雪 著

現代中国の女性作家による短編集。

 

何が書いてあるのかよく分からない。
登場人物は無目的に行動し、場面は繋がりなく転じ、会話はあらぬ方向に拡散する。物語というものは、人物が行動するのには必ず動機があるものだが、それは語られない。荒野、と書かれていたなら中国の作家であるということを事前に知っているから大陸の辺境にあるような場所を想像して読み進めるが、それが合っているのかどうかも分からない。何もかも不確かなままページは繰られる。驚くべき結末、といったようなものも開陳されない。ただ茫漠とした雰囲気を残して物語は終わる。途切れると言った方が良いかも知れない。書かれている言葉は分かる。読み進めることができるのだから。しかし物語は分からない。分かる、という読み方が適していないのだと思われる。
だからと言って面白くないのかと言われればそうではない。何かしら感想として言葉で表すことのできない、この小説を読むことでしか表れない感情というか、雰囲気というものが心のなかに宿るから。それは貴重なことで、今まで味わったことがないものを感じられたなら、それは読者にとって新しさであるから。奇妙で未知の読後感が残るのを味わえばよい。分かる必要はなくて、言葉の連なりを読むことによって心の中に生じる何かを感じればいいのだと思う。それが好きか嫌いかは個人の嗜好によるだろうけれど。

中原昌也の小説に少し似ているかも知れない。彼の小説も目的なく人々は行動し、そのことによって何も起こらないから。でも中原昌也の小説は読んでいる間ずっと楽しい。笑えることもある。残雪の小説には笑える箇所はなかったけれど、もしかしてあるのかも知れない。残雪の小説は中原昌也の小説よりも(言い方は悪いけれど)支離滅裂とも言える気がする。

少し前に何だったかで『ジャズの聴き方』みたいな記事をネットで読んだ。メロディだけでなく、リズムやハーモニーに着目して聴いてみましょう、みたいなことが書かれていた。「聴き方」を解説するのならそうなるのかな、と思いながら読んだが、音楽は楽曲を聴いて何も感じないのなら自分には必要のない音楽というだけではないだろうか。音楽理論のようなものを軽視するわけではないし、そのような知識があれば音楽の楽しみ方、理解の仕方は違うのだろうけれど、聴取者としてならば感じるだけで十分ではないかという気もする。
ただし、よく分からないけれど、探索していくことでそのジャンルを聴くことができるようになることはあると思う。
ノイズ・ミュージックというのは、わけの分からない音楽だと言われることが多いだろうけれど、自分もそうだった。初めて聴いたのは非常階段の『King Of Noise』でターンテーブルにレコードを載せて出てきた音を聴いた時に思ったのは「何じゃこりゃ?」だった。ハズレを買ってきてしまった、とも思った。しかしそのわけの分からなさが逆に気になって、レコード屋の棚を漁っているうちにMASONNAと出会ってしまい、一聴して「格好良い」と思ってしまった。何かしらの理屈や理論で武装して理解したわけでなく、感性が応じただけ。色々と聴くうちに耳ができた、みたいなことかも知れない。

小説を読む楽しみには、主人公や物語に共感したり、泣く、笑うといったわかり易い感情を起こさせるものも多いだろうが、奇妙な読後感を味わうのも悪くない。
馴染みの恋の歌を聴いて甘酸っぱい感情を味わうのも良いが、殺伐とした無常観を味わわせる音楽があっても良いし、それを楽しむのも悪くない。

そういう風に思うと詩というのはそういうものかも。文章、言葉で、それを読んでいる間にはっきりと言い表せない感情が沸き起こってそれを愉しめばいいのだから。残雪の小説は散文で書かれた詩のようなものなのかも。でもそれはとても奇妙なもので、あまりお目にかかれない珍しいものでもあるような気がする。ただ、結局のところはよく分からない。でも分からなくても別に構わない。