ある男/平野啓一郎 著

子を亡くし離婚を経験した女は郷里に帰り暮らしていたが、ある男と知り合い結婚して家族となる。しかし幸せな生活もつかの間、男は仕事の事故で死んでしまう。男の過去の話から親族に連絡すると実兄がやってくるが、遺影を見るなり弟ではないと言う。では誰なのか?
彼女は離婚調停で世話になった弁護士に相談する。

 

陰謀論、スピリチュアル、ファスト教養といった新書ばかり読んでいて、何か物語が読みたくなった。つん読本の中から三島由紀夫川端康成を手にとってみるも「これじゃない」感がある。日本文学でも現代のものが読みたい。
書店に出かけると平積みの文庫本に『ある男』があった。単行本の刊行時に「良い」という感想を沢山みかけていつか読んでみようと思っていたが、映画化されるらしい。スマホで少し調べると石川慶監督の新作とのこと。監督作の『蜜蜂と遠雷』は素晴らしかった。原作を読んでいての鑑賞だったが、あの分厚い原作を映画の枠に収めて原作とは違う詩情があった。それでいて原作を逸脱していなかった。映画は、観に行くことになるだろう。ならば原作を読んでおこう、いつか読もうと思っていたのだから。

現代の諸問題が物語の中に幾つも顔を出す。ヘイトスピーチ、過労死、貧困、姓名に関わる問題、震災の後の社会、利己的な人間の行動、犯罪加害者の家族と被害者の家族の問題、死刑廃止運動、そのようなものが物語の中に織り込まれている。
先般、『地下鉄道』という米国の奴隷制度に関する小説を読んだけれど、その帯には小説家の円城塔さんの言葉で
「フィクションを経由せずに、他者の痛みを感じることができるとでも?」とあって、けだし名言だなと思ったのだった。
そして『ある男』を読んでいると、自分には縁遠いことだと思って関心を持っていなかった事柄が、物語の登場人物たちに感情移入して、彼らの身近な問題だということを知ることで、社会問題がぐっと自分の近くに引き寄せられる感じがあった。フィクションを経由して社会の痛みを感じるという感覚があった。
映画『トップガン:マーベリック』は面白かったのだけれど、あの映画で現代が舞台だと思わせるのは、前作で登場した戦闘機F14が古い機体となっていて最新鋭戦闘機の方が性能が上だということぐらいではないだろうか。あと、トム・クルーズがちょっと老けてるくらい。
時代に左右されない、というのは普遍性があるということでもあるだろうけれど、マーベリックには、その点が物足りなかった。戦争という政治的に大きな動機を一切描かずに、現代の世界が抱える問題を避けていた。映画に「あれがない、これがない」といってもただの我儘だということは知っているけれど、映画は時代の記録であって、その時代の物の見方が反映されていないと物足りないのは確かなのだ。
だからこの『ある男』は、そういう意味でとても満足した。時代の記録としての物語だと思う。けれど、そういうものが描かれていたからというだけでなく、ミステリーの謎が解明されるという楽しみもあるし、何よりもっと人の心に思いを巡らせるという体験があって良かったのだった。

以前、別のWebサイトに書いたことだけれど、こんなことがあった。
その頃は週に一回、休みの前日の夕方に仕事が終わってから飲みに行っていた。それほど給与も高くなかったので安い立ち呑み屋だったけれど、一週間のお疲れさんに自分には十分で、作業着のまま店に入っても迷惑そうな顔もされず、同じような人たちがいたことも気楽だった。
毎週同じ時間に顔を出すようになると他の客の顔も少しずつ覚える。隣り合えば少し言葉も交わすようになる。
ある時、年配の男性と話し込んで、その方が北大阪の治水に関して博学を披露してくれてとても面白かったのだった。次の週にまた飲みに行くとその方がいて、また前の話を聞きたいと思い、確か周囲から「吉田はん」と言われていたはずだったので、そう声をかけた。でも返事しないの、そのおじさん。今度は「吉田さんですよね」と声をかけると、その人は
「ああ、ここでは吉田やったゴメン」と言うの。
どういうこっちゃ?と思い尋問すると、その人は、行く酒場ごとに名前を変えていて、あっちの居酒屋では田中でこっちのスナックでは山田だったりするらしい。おじさん曰く
「わたしはお酒を飲む場所ではどこのだれでもない人でいたいのですね、だからそんなことをして遊んでいるわけです」と言っていた。ああ何だか面白いなと思ったのだった。
『ある男』にも少し似た場面が冒頭にある。

色んな後悔などがあって、もう一度人生をやり直したいと思うことは誰にでもあるのではないだろうか。「もしもタイムマシンがあったら人生のいつの時代に戻りたいか」という質問が会話の緒としてあるのは、失敗だとか後悔だとかの分岐点よりも前に戻れるなら戻りたいという願望の表れのような気がする。
そんな理由でなくとも、平安で安定した暮らしをしている人でも、ふとこのままどこかに行ってしまって別人として暮らすといったことを夢想したことがあるのではないだろうか。自分にはどちらもある。

ネタバレはマナー違反だと思うからこれ以上は書かないけれど、そんな蒸発願望のようなものも描かれていると思う。著者の平野啓一郎氏もそんなことを思ったのだろうか、俺のような人間からすれば羨むばかりの経歴なのに、そんな人でもそんなことを思うのだろうか。

ミステリアスな展開と様々な現代の社会問題、そして繊細な心の機微が描かれた原作だけれど、石川慶監督はどんな映画に仕立てるのだろう。『蜜蜂と遠雷』を映画化した監督だからあまり心配していない。寧ろ期待の方が大きい。

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ファスト教養/レジー 著

昨今の世の中で隆盛するファスト教養を解読する本。

 

雨宮純の『あなたを陰謀論者にする言葉』は、自己啓発マルチ商法がオカルトやスピリチュアルと同じ泉から湧き出していることを鮮やかに描き出していた。そして、今の自己啓発の形がファスト教養。著者はファスト教養を

現代のビジネスパーソンは、なぜ「教養が大事」というかけ声に心を揺さぶられてしまうのか。そして、「教養が大事」と発信するビジネス系インフルエンサーはどのようにして時代の風を捉えて勢力を拡大してきたのか。

その問いに答えるためのキーワードが、本書のタイトルにもなっている。「ファスト教養」である。ファストフードのように簡単に摂取でき、「ビジネスの役に立つことこそ大事」という画一的な判断に支えられた情報。それが、現代のビジネスパーソンを駆り立てるものの正体である。

と書いている。具体的には、ひろゆき中田敦彦、Daigo、堀江貴文勝間和代などの名前をあげていて、この名前だけで「ファスト教養」の雰囲気は掴めると思います。

 

うんうん、そうだそうだ、そういうことなのか、なるほどね、と納得しながら読んだ。ファスト教養というものに警戒感と軽視を持って読み進めていたが、『「教養としての」ポップカルチャー』の項で『教養としてのラップ』や『教養として学んでおきたいビートルズ』、『教養としてのロック名盤ベスト100』などの音楽系教養本があげられていてハッとなった。そういうディスクガイド本のようなものには結構お世話になったのだ。

パンク・ロックだったら行川和彦の『パンクロック/ハードコア ディスクガイド1975−2003』、ノイズだったら秋田昌美の『ノイズ・ウォー』、ガレージパンクならキングジョーの『SOFT,HELL!ガレージパンクに恋狂い』、テクノ・ハウスなら野田努の『ブラック・マシン・ミュージック』、他にもソウルやディスコのガイド本、映画だってその手の入門書やガイド本は沢山手に取った。

あの頃はどうだったのかと自分のことを思い出してみる。そう、あの頃はそのジャンルの概観が知りたかったんだ。
レコード屋で幾つもレコードを繰って良さそうな盤に目星をつける。それを買って帰って聴く。でもそのレコードがジャンルの中でどういう位置づけなのか分からない。分からなくても気に入ったものなら構わないけれど、興味は湧く。レコード屋のエサ箱の中にあったダサいジャケットの中に、もしかして名盤の誉れ高いレコードがあったかも知れない。
それは知識欲だったと思う。上記の音楽本たちは「ファスト教養」なんかではないし、ビジネスに役立つ教養としてそれらを読んだものでもない。そして今も名作だと思っているけれど、自分にとっては、何か大まかに見渡せる内容の本はないか、と思って消費していたのは確か。でもその本が「ファスト」で終わらなかったのは、その本を契機にして掘っていったからだと思う。

中田敦彦の『YouTube大学』で経済に関する動画を見て興味を持って大学の経済学部に進んだ人がいたなら、中田の動画は良い入り口を提供したことになるし、決してファストでは終わらない。そう思うと、視聴者側の消費態度によってファストか否かが変わるのかも知れない。たぶん荒い消費こそが問題なのだろう。そして、それを分かっていて提供している中田も。

自分が社会人になった頃のことも思い出してみる。機械製造の会社に設計見習いとして雇ってもらった。仕事を覚え始めると自分の知識と経験が不足していることを実感した。成長することも望んでいた。
だから色々と自分でも勉強したけれど、それは自己啓発のようなものではなくて工学系の知識を摂取するという形だった。工学系の知識を摂取する場合にファスト教養は入り込む予知がないんですよね。ファスト教養なんて言葉はなかったけれど。
AをすればBになります、という工学系の知識は、嘘や誤魔化し、言葉のトリックは通用しない。工学というのは自然科学の法則を産業に利用するものだから。物理の法則は言葉で書き換えられない。だから自己啓発が入り込む余地が無かったんだろうと思う。

ファスト教養とは少しずれるけれど、今のような自己啓発で語られる「起業」という言葉が氾濫するようになったのは、平成18年(2006年)に会社法が改正された前後ではなかったかと思う。この年の会社法改正では資本金の制限が撤廃されたことから会社を作ることのハードルが低くなった。

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会社さえ起ち上げれば、その会社の収益や規模が如何なものであろうと職位としては誰でも社長になれる。
この年は堀江貴文村上ファンド村上世彰が逮捕された年でも有る。IT系企業が勃興し、特に堀江の存在は、大会社に入社することよりも才覚で新たな企業を立ち上げ成功するという夢を人々に持たせた。村上が放った「お金儲けして、何が悪いんですか?」という発言もこの頃の空気を表しているように思う。
現実的にIT系で若い企業人が国内外問わず誕生していた。金儲けに対する忌避感もバブルで破壊されてそれ移行ずっと薄れてきていた。そこへ多大な資本を持たない者にも会社を立ち上げることが可能になった。そんな経緯があったように思う。

もう一つこの本では書かれていなかったけれど、意識高い系を経過してファスト教養消費者が増えたのはヤンキーの減少と相関関係があるのではないかと思っている。(データはないです。)

ヤンキーもファスト教養消費者も競争を好み強い者に憧れそこを目指してる。環境の変革ではなく、その組織、社会での上昇を目指してる。ヤンキーが暴走族の頭を目指すように彼らは社長を経営者を目指してる。それはマチズモで、強さを希求してる。一番万能の強さは金。
ヤンキーは強い者に憧れるのでおおむね武器が好きなんですよね。バイクや車は機械によって速度という強さが増幅できる装置だし、ナイフとか銃とか大好き。年を取ると日本刀とかね。
ファスト教養消費者も強さを目指してる。そのために知識という武器を手に入れている。彼らの戦う経済やビジネスという戦場で知識は武器になる。教養も。
どっちも武器が大好き。そしてそれを装備することで強くなる。強くなればなめられない。なめる/なめられないってのはヤンキーにとって死活問題だから。

でもファスト教養みたいな、なまくらのナイフを幾つも持つより、本当に切れる刀をひとつ持ってる方が強いと思うんですよね。

自民党の統一教会汚染 追跡3000日/鈴木エイト 著

安倍晋三銃撃事件の後に明らかになっていった統一教会と政治家の蜜月を、それよりずっと前から追跡し報道していた著者による本。

 

連日ニュースなどで統一教会と政治家の関係があらわになってきている。そして、そこには鈴木エイトさんがいて、的確なことを仰っている。統一教会問題で今最も信頼されている記者と言っていいと思う。

鈴木エイトさんのお名前を初めて認識したのはこれ

徹底検証 日本の右傾化/塚田穂高 編著 - 8月~12月

この中で「統一教会勝共連合ーその右派運動の歴史と現在」と題された文章を読んでのことだった。右翼の中には生長の家という宗教に影響を受けている人たちがいることは知っていて、菅野完の『日本会議の研究』でもそのことに触れられていた。その時は「統一教会も右派系宗教なのか」くらいの感想だったので、これほど政治家と癒着しているとは思わなかった。

ニュースで最新の報道を見て知るのも良いが、活字できっちりとした事実が積み重ねられていくのは衝撃というか重みが違う。長年、たいして話題にもならずお金にもならなかっただろうに根気強く調査を続けてきた著者の執念の賜物だと思う。選挙期間中に疑惑の政治家に直撃取材を試みて、選挙妨害だと警察を呼ばれたりしていて、警察の対応も政治家におもねった態度であったりしたのにめげずにいたことは強さを感じる。

本書で書かれているように

2018年6月、全国弁連全国霊感商法対策弁護士連絡会)は参議院議員会館で緊急院内集会を開き、統一教会からの支援を受けないように衆参両院の全国会議員に要請する声明文を採択、各議員会館内の全議員事務所に配布した。

ことが記されている。それなのに未だに「知りませんでした」は通用しないのではないだろうか。嘘を吐いているとしか思えない。

ただ、疑惑の政治家たちにも少し同情することはあって

地盤・看板・鞄の3バンを持たない政治家にとって、後援会を結成し事務所スタッフから選挙運動員まで必要な人員を派遣してくれる統一教会はありがたい存在だ。

というのは、世襲でない議員たちのことで、結局は血筋で守られている人間は手を汚さないという理不尽さが垣間見える。

また、統一教会は国内で右派的な運動を後押ししていながら、韓国では2世信者たちによって

日本の大学生による謝罪と日本政府への謝罪要求

などという運動も行っている。何を考えているのか分からない。結局は政治的問題に対するスタンスなどないのだろう。教団が肥え太ればいいのではないだろうか。資本家たちが、倫理観を捨て営利に狂騒する姿に似ていると思う。

最近になって統一教会の解散命令に対する署名が始まっている。宗教団体の法人格取り消しを求めるものだ。これについて識者たちが警句を発しているが、これもどうかと思う。
宗教法人格の取り消しで改善しないこともあるだろうが、少なくとも日本国政府が真っ当な宗教として認めているかどうかということの証にはなるのだから。法人格取り消しのデメリットを並べてもメリットと比べないと正確な議論にはならない。
識者たちは、大衆が熱狂して一方向に流れることに危惧を抱いているようだが、間違った方向に流れているのならともかく、昨今の報道に接していればそんなことは言えないと思うのだが、彼らの論法はあまり変わらない。
確かに、その時には正しいと思われたことが振り返ってみると間違っていたということはあるだろう。太平洋戦争だって開戦時は支持していた人も多いということが、その証左にはなるだろう。
も、それなら「立ち止まれ」と言うだけでなく、より良い方向を提示するのが識者の仕事ではないだろうか。現時点で判断できる正しさはどっちの方向なのか。「冷静になれ」なんて誰でも言える。学識を持つ者でなくとも言える。
大衆の熱狂によって世論が一方向に雪崩れをうつ、ことの危険性は分かるが、今の状況は、熱狂とも雪崩をうつ状況とも程遠いと思うし、その方向が間違っているとも思えない。

今回の統一教会の問題では政治家にも改めて失望したが、識者の人々の判断の遅さにも目が開かれたなと思う。

妊娠・出産をめぐるスピリチュアリティ/橋迫瑞穂 著

妊娠と出産を控えた女性たちの周囲に広がるスピリチュアリティ社会学者が考察する本。

 

つい先日『あなたを陰謀論者にする言葉』という本を読んだ。
陰謀論、オカルトなどの歴史と変遷が綴られていて大変面白く勉強になった本で、そこにはスピリチュアルの起源と伝播についても書かれていた。読了後「なぜこのような荒唐無稽な考えを信じてしまうのか?」ということが最初に思ったことだったが、本書『妊娠・出産をめぐるスピリチュアリティ』には、その「なぜ」が書かれているのではないかと思って手にとってみたのでした。

 

読後の感想としては「そらしゃーないわ」なのだ。

その心境で、その環境なら仕方ない。はまってもおかしくない。頼ってしまうのも仕方ない。

少し前にSNSで、妊娠期の女性が近しい既婚子持ちの女性から「妊娠の痛みを通過しないとちゃんとした母親にはなれない」と言われたけれど、別の女性から「男は何も痛い思いはしないけれど父親になれるのだから大丈夫」と言われて心のつかえがとれた、といった話をみかけた。
その通りで、痛みといわず男というものは子を持つに至るまでに自身の体は何一つ変化しない。気楽なものなのだ。
対して女性というものは妊娠すればたちまちの間に体は変化する。体内に新しい生命が宿るのだから当たり前と言われればそうだが、その当たり前は最初の妊娠であればどの女性にとっても初体験で、子の生命と健康を預かる身で何をどうすればいいのか、学んでいかなければならない。義務教育で何から何まで教わったわけでもない。

体は刻々と変化していって、自身の体調、そして気分も影響される。不安もある。それは出産に対する不安でもあるし、元気で五体満足な子供が生まれるかどうかという不安でもある。パートナーが協力的であれば、幾分かの助けにはなるだろうが、新しい命が宿っているのは母親である自身の体の中で、夫も手出しはできない。責任を一身に背負っているという気持ちにもなる。

気分を転換するのも難しいだろう。酒も飲めない。気晴らしに出かけるのも大変だ。食べるものにだって気を使う。病気になったりするわけにもいかない。薬にも注意しなければならない。

その点、男なんて適当に食って適度に寝て時折オナニーでもしていれば体のメンテナンスはさほど必要ない。体を繊細に扱う必要がない。

不安を和らげる為には正しい知識が必要だ。図書館で試しに、普段は絶対に手に取ることがない育児・妊活系の雑誌をパラパラと見てみたが、情報が洪水のように押し寄せてくる。そこに怪しげなものが紛れ込んでいても区別はつかない。

スピリチュアルといったって安産祈願のお守りくらいならどうってことはないだろう。しかし「子宮系」「胎内記憶」「自然なお産」といったものは、医療を軽視することにも繋がりかねない。そして本書で著されているように、それらが保守的な国家観へ繋がることが指摘されている。

人が不安になっているところにつけこんで、金をくすねたり、何かしらの考え方や思想をすべりこませたりする輩はろくでもない。コンプレックス・ビジネスや洗脳の手法と同じではないか。しかし科学や論理的な考え方が心の平安を与えてくれないなら、そのようなものはなくならないのだろうな。

反=恋愛映画論/佐々木敦、児玉美月 著

古今東西の恋愛映画について語る内容。

恋愛映画だけに特化して著者の二人が対談し、その考えを掘り下げていく。私はこう思った、あなたはどう思ったか、そういう対話が繰り広げられる。それはとても楽しいことで、誰かと映画を観に行った後にカフェなり居酒屋なりに行って、あの俳優が良かっただの、あの場面のアレはどういう意味なのかだの、あの展開は強引過ぎるのではないか、とお喋りをすることは映画評論家や文筆家でなくとも楽しい。そして、そんな風に話すことで自分には気付かなかった解釈や感性に触れたりする。それは少し相手を知ることにもなったりする。

本書の中で取り上げられてる多数の映画の内で観たことがあるものは数えるほどだった。元から「恋愛映画」と銘打っていたならそんな映画は観に行かないのだから仕方がない。しかし表紙に『リコリス・ピザ』のアラナ・ハイムの姿があり、あの映画が好きになれそうな要素は沢山あるのに好きになれなかったことから、その謎がこの本を読めば少しは分かるのではないか、みたいな気持ちで手に取った。
その謎は解けなかった。
しかし映画本を読む楽しさは他にもある。
自分が観た映画なら、映画鑑賞の手練である評論家や文筆家は、その映画をどう観たのかという興味がある。そこに深い解釈があれば「ああ、そういうことだったのか」と思い、納得する。広い映画知識を持った人には、それなりの見識というものがあるのだから。それを元にもう一度観に行くこともあるだろう。
そして、観ていない映画について書かれているものはどうか。その中には興味を惹くものがやはりある。恋愛映画だからと敬遠していたけれど、どうやら面白そうな映画もあるようだ。そんな気持ちになって観たい映画が増える。
映画についての本を読むことにはそんな効能もある。