あなたを陰謀論者にする言葉/雨宮純 著

古今東西のオカルト、陰謀論を網羅し解説する書。

様々な胡散臭げなものたちが取り上げられる。

60年代に始まったカウンターカルチャー、ヒッピームーブメントから、ドラッグ、精神拡張、コミューン、アーミッシュモルモン教、無農薬、オーガニック、スローフード、菜食主義、ニューエイジ、瞑想、代替医療、超能力、UFO、スピリチュアリズム、神秘思想、神智学、チャネリング霊媒アトランティス大陸、UFO、マヤ暦、ノストラダムス、インド、東洋思想、手かざし、マクロビオティックホメオパシー、引き寄せ、波動、ニューソート自己啓発、自己責任論、マルチ商法ロバート・キヨサキ、パワースポット、新興宗教、ヒーリング、Qアノン、ディ−プステート等々が取り上げられていて、その歴史と変遷が詳説されている。
マルチや自己啓発に経済活動以外の胡散臭さを感じていたが、その始まりと歴史が分かって、とても勉強になった。とにかく物量が凄い本なので一読をお勧めします。

 

なぜこのような思想にはまってしまうのか、そしてなぜ自分はこのような思想を胡散臭いと思い取り込まれずに済んだのかと考えてしまう。

子供の頃から宗教や神秘思想が身近になかったから助かったのだろうとは思う。両親が宗教に熱心だったとは言えないので。法事のようなものにさえ縁が遠かったから宗教との接点は皆無に近かったと思う。
それでも少年誌のホラー漫画などでは霊や魔術という題材のものはあり、ノストラダムスの予言なども恐ろしかった覚えがある。
ただ、そのようなものにのめり込まないでいられたのは、SFが好きで科学に魅力を感じていたのと、男の子によくある機械ものが好きだったことが要因だったかも知れない。大学は工学系に進んだので、オカルトのような非科学的なものを信じるのは馬鹿だと蔑みの気持ちもあったと思う。

科学教育の無力さ、と言ってしまえばそれまでだけれど、誰しも科学に興味・関心があるわけでもない。義務教育で教わるとはいえ、小中学校で教えられたことを完全に覚えているかと言われれば、そうとも言えないのだから、それを責めるわけにもいかない。

愚かさと言ってしまうのも、あまりにも無慈悲な気がする。自分だって知らぬ間に非科学的なものを信じてしまうことだってあるかも知れない。科学知識の全てを知っているわけでもないのだから。

アトランティスやマヤ暦、ノストラダムスやインド、東洋思想については少し分かる気がする。
かつてヨーロッパでは、ギリシャ時代には豊かな学問があったけれど、それが失われた。しかし、ルネサンス期に活版印刷が普及して再びギリシャ哲学などが広く読まれるようになった、という現象があり、過去の時代のほうが人間には叡智があった、という感覚が欧州人にはあるらしい。
それがアトランティス大陸には超古代文明があったとか、中世の時代の人間には現代人が失った予知能力を持っていたという予言であったりするのではないか。過去という時間軸ではなく、場所という空間に置き換えると、西洋にはない優れた思想が東洋に隠されていた、みたいなことにもなるだろう。

それは「Make America Great Again」や「日本を取り戻す」みたいな政治スローガンにも表れていて、過去には今現在よりも優れたものがあったという考え方が共通している。なので、こういうことを言う政治家はヤバイと思って差し支えないのではないかと思う。

テロリズムとは何か/小林良樹 著

元警察官僚の著者によるテロリズムの研究と解説の書。

 

 

画像は自分の本棚から。

黄色い本『WAVE14 テロ 完全イエローブック』は1987年刊行の本で、当時のテロリズム、テロ組織が網羅された本。

『いま君に牙はあるか』と『獄中十八年』は、右翼民族派の論客、野村秋介の著作。彼は1963年の河野一郎邸焼き討ち事件、1977年の経団連襲撃事件を起こした右翼テロの人でもある。最期は1993年に朝日新聞社内で抗議の自決で亡くなった。『激しき雪』はその野村秋介の評伝。

『狼煙を見よ』は、極左テロ組織であった東アジア反日武装線について書かれた本。1974年に彼らが起こした三菱重工爆破事件は日本のテロリズムを語る上で必ず引き合いに出されるテロ事件だった。頁の間に「梅田・阪急 古書の町」という紙片が入っていたので阪急梅田駅下の古書街・かっぱ横丁で購入したものだろう。

アンダーグラウンド』は、1995年のオウム真理教による地下鉄サリン事件による被害者にインタビューしたものをまとめた書籍。

他には、日本でも左翼過激派が勃興した時代の連合赤軍日本赤軍などの書籍、パレスチナゲリラに関する書籍なども読んだが、もう手元にない。引っ越しをすると本というものは散逸してしまうものだなと思う。

そんな風に、昔からテロ、テロリズムというものに興味/関心があった。
この本『テロリズムとは何か』を読み始めたのは、安倍晋三銃撃事件の後になってからで、テロとテロリズムに関してあちこちで議論されている時期だった。ちなみに本書の刊行は2020年。

 

よく、この事件はテロかテロでないのか、といった議論があるが、先ず言葉の定義をしてからその話を始めるべきでは?と思っていたが、テロという言葉の定義には定まったものがないということが本書に書かれている。そこで色んな語義に共通して含まれている要素として以下が挙げられている。

・政治的な動機

・恐怖の拡散

・違法な暴力あるいは暴力による威嚇

ある事件がテロか否かという議論をするならば最低限このくらいの共通理解は必要じゃないだろうか。

 

安倍晋三銃撃事件は、犯人に「政治的な動機」が明確にあったのかどうかは分からないが、多少なりとも問題定義として注目されることは予想していたような節がある。「恐怖の拡散」は安倍晋三という無名でない人物を標的に選んだ時点で、意志としてあったかどうかは分からないが予想はされたことだろう。
「違法な暴力による威嚇」はその通り。

極左や極右の政治テロや宗派対立などの宗教テロのように明確な犯行声明があるわけでもなく、ローン・ウルフと言える単独犯で、明確に上記の3つの条件にあてはまるとは言えないけれど、概ね当てはまるとも言える。ここら辺りがこの事件をテロか否かに判別する微妙な点になっている気がする。

本書は元警察官僚の著した書籍なので、テロの防止/抑止ということにも大きく頁が割かれている。それは、テロを未然に防止する体制作りや、治安機関の充実といった政府側の諸政策に始まり、警備体制の見直しといった具体的な問題まである。
その中に、そもそもテロリストを生まないためにはどうすればいいかも書かれている。「社会レベルの問題に着目した施策」という項では

社会レベルの問題に着目した施策とは、テロの背景にあるとみられる社会的な不満などの軽減・解消を目的とする諸政策です。これらの諸政策は必ずしも「狭義のテロ未然防止策」には含まれず、対外的には外交政策、国内的には社会政策(福祉、教育、雇用等)の分野に含まれる場合が一般的です。

(中略)

国内的には、社会の差別、分断等の解消に向けた諸政策がみられます。

とある。
つまり社会不満などがない安定した世の中であれば、そもそもテロリストは生まれない、ということが書いてあるが、当たり前だと言えばそうだ。市民が誰しも世の中に強い不満を抱くことなく暮らせるのならばテロのような凶行に及ぶこともない。
つまりテロリズムの要因となった社会不安を取り除くことは、模倣犯の発生を防ぐ抑止力になる。

安倍晋三銃撃事件の後に識者たちは「テロリストの主張に耳を傾けることは新たなテロに正当性を与えることになる」と言って、マスコミが統一協会問題をマスコミが取り上げるのも、市民がそれに関心を持つことも抑えようとしてきた。この言い分は定型文として間違ってはいない。
けれど山上の事件は複雑で、山上は犯罪を犯すことで、ある主張を世間に広めようとしたのか、そうでなくただの怨恨であったのかは、どちらもありそうだが、政治的な目的はあるようで実は怨恨であり、その背景にあるのは宗教で、しかし宗教の問題だけでなく政界の問題にも発展している。これは、本書のようなテロリズム研究の分類から言っても多義的で曖昧な側面があり、簡単に類別できない。そのようなことに定型文でしか応えられないのならば学者や知識人たちは応用問題に対する解答力がないと判断するしかないだろう。
また、識者たちが市民の意見を抑えつけようとしていたのは、それこそ分断を生むことになり、テロ抑止からも真反対のことを主張している。「テロリストの主張に耳を傾けるな」と言ったコメンテーターを統一協会シンパだと決めつけるような単純さは愚かでしかないが、そんなことしか言えない識者たちも愚か者だとしか言えない。そのような人が沢山あぶり出された事件だったとも思う。

元警察官僚の著者が著した書籍ということで政府側からの見方が羅列されていると思われるかも知れないが、テロリズム研究の成果を広範にわかり易く紹介してくれる本として大変参考になった。

激怒

2022年、日本、高橋ヨシキ監督作

行き過ぎた捜査が問題となった刑事は、療養施設に送られる。そこから帰ってくると、町と警察は変貌しており、市民による暴力が治安を維持する力になっていた。

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暴力をも持さない、という現代の常識で言えば問題のある刑事が主人公。
ある町に引き籠もりの男がいて、地元住民たちは彼の家に大勢で押し寄せる。正義感から。しかし男に逆襲されて捕らえら、家の中に軟禁されてしまう。
そこへ主人公の刑事が現れ、引き籠もりの男に暴力を加えて制圧してしまう。その過程で、刃物を持っていた男の母親は誤って死んでしまう。

この場面で、登場する人々は誰も間違っていないけれど誰も彼も間違いを起こしている。
地域住民は引き籠もりの男をどうしようとしていたのか分からないが、彼が地域住民に何かしらの迷惑をかけていたのだろうか。地域の住民が連帯して問題を解決することは間違っていない。引き籠もりの男を更生させようとしていたなら、それも正しい。しかし勝手に人の家に乗り込んで行ってよいものではないし、自分たちと違う人間をよってたかって非難したり攻撃したりしていいものでもない。そこには縄張りの中にいる異物を排除しようとする群れの性質が垣間見える。彼らは自分のやっていることを正義だと疑っていないし、その行動に邪悪が潜んでいることに気付かない人もいるだろう。
主人公の刑事にしたって信号無視はするし、あまり夜露死苦ない人たちと付き合っている。引き籠もりの男に行き過ぎた暴力を加えてもいる。そして犯人とは言えぬ母親を事故とは言え死なせてしまう。
しかし刑事のやり方は、少しやり過ぎではあるが事件を解決するという彼の職務には合っている。そのことで事件は解決されるのだから。そして、たとえ犯罪者の身内であっても殺していいものではないではない。
正しさも間違いもある。人間というのは大抵どちらも内包しているものだ。

刑事が仕事に復帰すると町と警察は変わっている。自治会が結成した自警団が小さな犯罪にも私刑を行使することで町の治安に貢献している。それを警察署長は黙認している、というより積極的にそれに加担している。刑事のかつての仲間の中にも、そんな状況に従順に従う者もいる。

正邪が混沌としている。
自治会の会長の男は、女性の警察署長に治安維持のために法を超えた行動を求めるが、彼女はそれを拒む。そこで「あなたが男性だったら」という明らかなミソジニーを発露する。しかし彼だって町が平和であることをのぞんでいて、それ自体は悪いことではない。でも法は法。男女の区別は関係ない。
駐車場の料金を踏み倒した男女に自警団が暴力をふるう場面がある。小さな犯罪だとて悪いことにはかわらない。犯罪を小さな芽のうちに摘んでいくことは大きな犯罪を産まないことにもなる。しかし行き過ぎた制裁は問題で、それが私刑ならば尚更。

自分の中に正義とはどういうものかという信念があることは悪いことではないが、それを疑わずに無邪気に己の正義を振り回すことには害がある。良かれと思ってしでかしたことが悪い結果を生むこともある。悪気はなかったと言えば免罪されるという無邪気さは通用しない。でもそんな人は世の中に沢山いる。それでも自分の中の正義を信じていなければ不正に声を挙げることもできない。
解決されない正義と邪悪の問題が渦巻いている。清廉潔白な者が悪を退治するといったわかり易い物語は多くの人に届くし、それに溜飲を下げる人も多い。SNSで、マナーの悪い奴を懲らしめたという真偽不明の逸話に多くの人はいいねのボタンを連打する。でもこの映画はそうじゃない。勧善懲悪ではない。

それでも、この映画はそれを解決してしまう。それは行き過ぎた暴力で。主人公の男は自警団のやり方に激怒して対決し彼らを徹底的に暴力でねじ伏せる。リアルな描写でなくていいのだ。これは映画なのだから。映画とはそういうものなのだから。フィクションの中で現実には起こり得ない事が発生しそれをねじ伏せる。ファンタジー、SF、フィクションにはそれができるし、それが力なのだから。怒りが充満しそれをあり得ない展開で発露する。そこに現実にはない映画的快楽がある。

休刊した映画秘宝の熱心な読者ではなかったものの、それなりには読んでいたし、創刊したころは好みの映画誌が現れたことを大いに喜んだのだった。だから高橋ヨシキという人の名前は知っていて、最近はYouTubeの番組などで氏の発言を見聞きすると、その映画的知識と公平で自由を尊重する考え方に感心し信頼感を持つようになった。彼が映画を監督すると聞いたときには凄いものを作ってくれるのだろうと思っていたし、映画を観始めるまでそう思っていた。
しかし映画を観始めると「ああ高橋ヨシキという人が撮ってもこんな感じなのか」という印象があった。「ああ日本映画だなあ」と。低予算の映画だということは事前に知っていたし、そのことは覚悟していた。期待しすぎたのかもしれない。でも空気が緩い。画面から緊迫と緊張が感じられないと感じた。
しかし、刑事が隔離された精神病院のような施設の場面から映画が駆動し始めた。打ちっぱなしのコンクリートの部屋、効能のよく分からない薬とそれを貪るように摂取する刑事の男、意味深な白衣の男女。不穏な空気が流れ始め、映画が現実と遊離しフィクションの中に自分を連れて行き始める。
そして映画的に過剰な暴力描写。空には軍用機だろうか大きな飛行機が黒煙を吐き出しながら飛んでいる。この世ならざる世界がそこにある。

最初、この映画は駄目なのではないだろうか、と不安に思っていたが、だんだんとのせられて引き込まれた。現実世界で感じる苛立ちがそこかしこに埋め込まれていてそのフラストレーションに共感した。ラストに描かれる残酷で激しい暴力描写は、良識ある人たちが眉をひそめるようなものだが、現実世界で常々抱えている苛立ちが発散できない我々には代弁だとしか思えない。
松田優作の初監督作『ア・ホーマンス』を思い出した。身近な現代だと思っていたらだんだんと捻くれていって別の怪しい世界に引き込まれる感じ。不穏で暴力的な感じも。

結果的にとても楽しんだ。映画を観終わった後あれこれ考えながら帰宅したが、パンフを買い忘れたことを後悔した。
高橋ヨシキ監督の第二作が作られることを楽しみにしたい。

 

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HEROES

兵庫県立美術館で開催された武者絵、浮世絵と刀剣の展覧会。

 

平家物語太平記里見八犬伝ヤマタノオロチ退治のような日本神話、それらに登場する英雄が戦う姿を描いた、武者絵と呼ばれる浮世絵と刀剣の展覧会です。武者絵は江戸時代のものが多かった。

まあ、格好良いですよね。

現代のような世界規模で文化が混交している時代と違って、純度の高い日本文化が描いた英雄像が見られる。それらに現代の漫画や映画に見られる外連味や、ヤンキー文化にあるような美意識も垣間見える。こういうものが日本文化の源泉なのだなあと思う。

物語でも現実でも英雄に憧れを抱くのはやっぱり強い存在だからでしょうね。我々は動物だから生きていくためには強い方が生存に適しているから、それを目指すし、そういう存在を追うようにプログラムされているのではないでしょうか。
肉体的な強さはわかり易いから格闘技やスポーツ選手のような存在に多くの人は憧れる。特に男子。女子にとっての強さや優秀さは美だから、きらびやかで華やかな女性に憧れる。そして男女共に知的な強さである知識や学力は、学歴としてわかりやすく示される。万能の強さは金。だからみんなお金を求める。強くなりたいから。誰も間違ってない。

刀剣を見た時に背中がヒヤリとするのはその長い刃渡りが研ぎ澄まされていて、人を殺すための武器だからでしょう。武器は強さ。だからそこに惹かれるのだと思う。

強くなることや強い者にあこがれる人々の気持ちが、こういう武者絵のようなものを芸術家に描かせたのだと思う。それは今も同じ。マーベルのようなヒーロー映画はわかり易く人気があるし、SNSなんかでも、行儀の悪い奴をこらしめてやった、といった悪を成敗するお話は真偽不明でも拡散されて多くのイイネが集まったりする。

我々は遺伝子に組み込まれた命令によって強さに憧れ、それを表現した芸術や娯楽作品に惹かれる。そうなるのは無理もない。でもちょっとそういうのに自覚的でないといけないなとも思う。感情や感覚だけを信じて考えることをしなければ獣と同じだから。
でも絵画を鑑賞する時には感性で受け取ればいいのだ、とも思う。

兵庫県立美術館の裏手にはこんなものも

 

ブレット・トレイン

2022年、米国、デビッド・リーチ監督作

東京から乗った新幹線でブリーフケースを盗み出す仕事を請け負った男は、あっという間に目的を達成した。しかし、次から次へと殺し屋が現れ列車を降りることもできない。そのまま新幹線は京都に向かってひた走る。

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デヴィッド・リーチ監督作のスパイ映画『アトミック・ブロンド』は、主演のシャーリーズ・セロンのアクションが素晴らしくめちゃ楽しかった。キアヌ・リーブスの殺し屋映画『ジョン・ウィック』もシリーズ化していて、毎回楽しみにしている。『ワイルド・スピード スーパーコンボ』もシリーズ自体のファンだということもあって楽しかった。
スタントマン出身らしくアクション満載の映画を作る監督で、それほど追いかけているという意識はないけれど、食指が動いて観に行った映画が、デヴィッド・リーチ監督作だったという感じで結構見てる。
本作は大して興味もなかったのだけれど、デヴィッド・リーチ監督作ということを知って観に行こうという気になったのでした。

舞台が日本ということで変な日本描写がたくさんあるけれど、わざとやってると思うし、それが楽しい。
ジョン・ウィック』も『アトミック・ブロンド』もそうだったけれど、色合いが賑やかで美しく、観ていて心浮き立つものがある。『ジョン・ウィック』などはアクションにおける映像美みたいなものがあるが、本作は喜劇なので賑やかな楽しさがある感じ。
ただ、列車の中で物語は進むのでアクションとしての派手さは今まで観たリーチ作品よりは地味かなと。キアヌ・リーブスが馬に乗って街中を駆けるような派手さも、シャーリーズ・セロンが建物の上階から飛び降りるような危険もない。せいぜいい変わったもので殴りつけるくらい。でも喜劇だから。
物語もあれこれ言う必要もなく、馬鹿だなあ、とクスクス笑って観ていられる。列車に乗っているように映画に導かれて結末まで連れて行ってもらえば何も問題はない。

先日観た『NOPE』は、何かしらの暗喩であろうという場面がたくさんあり、それを読み解くのに気を使ってちょっと疲れた。『ブレット・トレイン』の方は何も考えずに観ていられる。こういう映画も大事。