『マチネの終わりに』と『蜜蜂と遠雷』

この土日に映画を2本観ました。

『マチネの終わりに』
2019年、日本、西谷弘監督

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蜜蜂と遠雷
2019年、日本、石川慶監督作

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どちらも原作を読んでとても感銘を受けて、音楽家が主人公という共通点もあり、それをどう映画化するのかという興味で観に行った。

結果としては『マチネの終わりに』は凡作で『蜜蜂と遠雷』の方は映画としての詩情があってとても感心した。

どちらもボリュームのある小説で、それを映画という2時間の枠に収める為には切り捨てる部分はあるだろうし、元より小説と映画は別物だと思ってもいるので「原作のあの部分がない」みたいなことを言っても始まらない。その通りに両作品とも映画にするにあたって小説の物語は改編されていた。


どう原作をアレンジするのかというのは脚本の腕前だと思うが『マチネの終わりに』の方はそれに失敗していたと思う。
原作小説は、男女が惹かれあって、でもすれ違いがあって、やがて時が経って邂逅するというお話が主な物語だが、それに付随する人物描写や内面と彼等が社会や世界とどう対峙するのかといった部分が奥行き深かった。また、主役のギタリストの女性マネージャーが重要な役柄で、彼女の行動とその理由は人間の凡庸さとそれゆえの強さと罪深さを象徴しているが、その部分の改編は大いにインパクトに欠けるというか大事なものをごっそり削ぎ落としているように見えて、映画では原作での骨格を借りただけの物語になっていた。

蜜蜂と遠雷』も物語は当然アレンジが加えられていた。4人のピアニストが登場するが、松岡茉優が演じる成人した元天才少女の役柄を主役に立て、彼女と他の3人という視点に置き変えていたし、コンテストで入賞する順番なども書きかえられていた。しかしそれが映画の中で物語を成立させる為に必要なものであるということに観ていて納得して、小説とは違う物語が映画の中できちんと成立していたと思う。

俳優の力なのか演出の力なのか、そういうものにも差があったと思う。
『マチネの終わりに』での福山雅治は、クラシックの天才ギタリストを演じていたが、あくまで演じているようにしか見えなかった。木村拓哉がどんな役をやっても木村拓哉にしか見えないように、そういう俳優なのだろう。テレビ、ラジオに多く出演していてその個性が知れ渡っているというこもあると思う。石田ひかりも美しく可憐だが、それ以上の奥行きは感じられなかった。
ただし、先述した女性マネージャーの役を演じている桜井ユキという女優さんはとても良かった。主役の二人が、芸能人が映画の中の人物を演じているという風に見えたものに対して桜井ユキさんだけは映画の中の登場人物として見えた。お名前を知らなかったけれど、素敵な女優を発見した喜びがあった。

蜜蜂と遠雷』の方は4人のピアニストを演じたのが松岡茉優松坂桃李森崎ウィン鈴鹿央士。松岡茉優はテレビで見掛けるのとはまるで顔が違っていた。松坂桃李は会社員でありながらピアのコンクールに出場するという天才ピアニスト達の中では少し地味な役柄だが、その地味をきちんと演じていたのが素晴らしかった。鈴鹿央士は、経歴は良く分からないが凄いピアノを弾く天才少年の役柄で、この役は実写映画化した場合に一番難しいのではないかと小説を読みながら思っていたけれど、不思議に色気と才気を感じさせる演技でうまくはまっていた。新人だそうです。
他にも4人を取り巻く俳優が達者揃いで誰ひとり浮いた感じがしないというのは凄いことだと思う。特にステージマネージャーを演じた平田満の優しと気遣い画滲み出る役柄がとても良かった。

『マチネの終わりに』では、お洒落なパリ、ニューヨークや東京といったロケーションで撮影しているものの、それが<お洒落な街>という記号でしかなかった。
蜜蜂と遠雷』は架空の地方都市を舞台としていて派手なロケーションは何もないが、海に面してしんとした静かな地方都市の光景に風情が感じられた。

原作のあらすじだけを借りてきた映画と、映画の中に似て非なる物語を作った映画との違いがあり、俳優の演技、演出と映像の格みたいなものに大いに差がある映画だった。それと原作のあるものを映画化する難しさみたいなことも。
そんなことを考えながら日本映画を観比べるのもとても面白いと思いました。