ある男

2022年、日本、石川慶監督作

地方の町で林業に従事していた男が事故で亡くなる。亡くなった夫の一周忌にやってきた実兄は遺影を見て、「この男は弟ではない」と妻に告げる。妻は弁護士に、夫だった男が何者だったのか確かめて欲しいと依頼する。
平野啓一郎の同名小説を原作とした映画化作品。

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原作を読んでいたので物語については、あの部分は省略したのだな、このことについては重点を置かずに表現したのか、といった感想になってしまう。ミステリー要素のある作品なので、その点についてはあまり書かない方が良いかも知れない。しかし入り組んだ謎が徐々に解き明かされるというストーリーをうまく映画の中に収めているのじゃないだろうかと思った。原作未読で観ればどんな感想を持ったのだろうと思うが、それはもう確かめようがない。

原作を読んでとても感銘を受けたので、登場人物については自分の中で既にイメージがあった。公開までに映画の予告を何度か見る度、この人はイメージ通りこの人はちょっと違うイメージ、などと思っていたが、自分の思っていた像と違うことがいけないのではなく、そのちょっとした違和感が映画を観ることによってどんな風に変わるのだろうという楽しみがあった。

外国映画を観るときには俳優の演技が上手いとかどうだとかいうことはあまり気にしないで観ていられて、それは遥々海を渡って公開されるくらいだからという安心感もあるだろうけれど、言葉が違うのでそういうことが気にならないのかも知れないし、解読できるほどの素養もない。けれど日本映画となると今の自分の生活の地続きにあるので、どうしても「こんなことは言わないのでは?」とか「こんなのはオーバーアクションではないだろうか」などと穿った見方をしてしまう。
『ある男』を観てどう思ったかというと「俳優陣が素敵な映画だな」という感想を持った。

事故で亡くなる男を演じた窪田正孝さんは、観る前からイメージ通りだったが、色んなシーンの数々で、戸籍を入れ替えて生き延びる男の悲哀と苦悩が乗り移ったようで、完全に映画の物語の中で生きている人だった。

夫を亡くした妻の役は安藤サクラさん。この女優さんには強い女性のイメージがあり、原作を読んだ感じでこの役は、賢明ではあるけれど弱さを持った女性という印象だったので少し違和感があったのだけれど、見事だった。原作を再読すれば安藤サクラさんでしか再現されないのじゃないだろうか。安藤サクラさんのイメージがガラッと変わってしまった。

弁護士の城戸を演じたのは妻夫木聡さん。もう少し年配の枯れた人物のイメージを持っていたので、少し若々しい妻夫木さんには、どんな風になるのだろうと期待していたけれど、その期待を良い意味で裏切る感じがあった。調査の過程で他者と会話する時には丁寧で微笑を絶やさない人格者である彼が、二度声を荒げる場面があったが、感情的に振る舞ってしまうときもあるという弱さが垣間見えた場面でもあり、全編にわたって少しの憂鬱と不安を抱えている複雑な人物が彼から印象付けられて映画の重さを形作っていたように思う。

妻夫木さんの同僚を演じた小籔さんは、正直心配だった。お笑い芸人でもあるし、彼には好きな面も嫌いな面もあるのだけれど、こういう人物が同僚だからこそ精神的に重荷になるような仕事でもやり遂げることができるのかも知れないな、と思わせるような軽さとその良さを両方感じることができた。ちょっと小藪さんのことが好きに傾いたかも知れない。

柄本明さんが演じた囚人の役は、原作を読んでいた時は太って脂ぎった徹底的に利己的な人物の印象だったが、年配の柄本さんが演じることでミステリアスな奥行きがあり、流石の怪優という貫禄があった。

亡くなった男の実兄を演じたのは眞島秀和さん。この俳優さんはまったく予備知識がなかったけれど、原作での印象は、今時はやりの経営者の言い分だけを振り回すビジネスヤンキー的なギラギラした人物の印象だったが、そういう面を誇張しすぎない感じで演じていて好感を持った。嫌な役だったのは確か。

妻夫木さん演じる弁護士の妻は真木ようこさん。パンフのインタビューを読むとご自分のキャラクターとは違和感があった役というようなことが書かれていた。原作では弁護士の城戸が世の中のことを憂いているのに対して家族と個人の幸福を追求することが優先だと思っている人物だったので、そういうところだろうか。この部分は映画ではあまり掘り下げられていなかった場面だと思うが、原作を読んでいた身からすると、ああこんな感じの女性だろうな、という人物を少ない登場場面で滲み出るように演じていたと思います。

最後に、安藤サクラさんの息子を演じた坂本愛登くんが素晴らしかった。原作で中学生のこの少年が、父親が亡くなって名字が変わってしまうことの悩みを打ち明ける場面はとても印象的だったので、この役をやる少年は大変ではないかと思っていたけれど、幼さと大人への萌芽が開き始めた複雑な年頃の少年を演じていて、彼が登場する度に少し涙ぐんでしまうくらい良かった。パンフを読むとこの場面では安藤サクラさんの助力があったようで、その辺りの俳優陣の奮闘も感動ポイントになった感じがある。

石川慶監督作の前作『蜜蜂と遠雷』はとても重厚で深い余韻があった。『ある男』では撮影監督が違っているということらしく、重さよりも現代の日常の地続きにある世界が描かれていたように感じた。映画は時代の記録であり、2022年にこの映画が公開されて、その景色は2022年のものだと後世になれば認識されるのだから、確かな手腕なのだと思う。

ラストシーン。あの場面をここに持ってくるのか、という驚きと余韻。これは原作を読んでいる人に味わえる感動だと思う。