死都調布/斎藤潤一郎

指を発泡した女、蛇をタコスにして食う男、タクシー運転手を罵る女、狂熱のカルト集団、地獄の番犬、火を吹く骸骨……
そう、ここは死都調布…血と暴力の景色……

なんとなく書店で表紙が気になって買ってしまった。貧乏による困窮があっても本を買うのは止められない。
一昔前ならガロに載っていそうな漫画だった。つげ忠男のようなアウトローのやさぐれ感があって、つげ義春の不安恐怖症が漫画に乗り移ったような『必殺するめ固め』で繰り広げられる地獄のような幻惑もある。あと、それと、鈴木翁二を思わせるような雰囲気も。絵柄かなあ。

こんな感じの漫画だけど

トーチweb「死都調布」http://to-ti.in/product/shit-chofu

 

勤勉に真面目に働く、いわゆる一般的な会社員のような、世の中の大勢である人物は登場しない。凶暴な犬や凶暴な女やどうしようもない男が登場してうごめいている。物語にはそれまでの展開を収束させる結末も用意されていない。しかし読んでいる間が楽しいのは確か。
少年漫画だとか青年漫画だとかで何万部も売れる漫画と肩を並べることはないのだろう。明るく朗らかでわかり易い感動を与えてくれる漫画ではないのだから。恋も友情も描かれていないし、登場人物の誰一人として尊敬に値する人物ではない。でもそんな漫画は楽しい。

どうしてこのような漫画が好きなのだろうか。なぜ書店で表紙を見て引き寄せられるように買ってしまうのだろうか。金もないのに。

この漫画と作者のことを検索している内にセミ書房の『架空』という漫画誌があるのを知った。同人誌みたい。読んでみたいけど金が。

トップガン

1986年、米国、トニー・スコット監督作

トム・クルーズの戦闘機アクション映画。

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1986年の映画に今あれこれ言っても仕方ない。だって36年も前の映画で、その時代からすれば映画の中のあらゆる技術は進化して洗練されているのだから。

劇中で同じ曲が何度も流れるのがダサイとか、美女がいつの間にか主人公に惚れているといった男子の妄想的な恋愛譚がご都合主義的すぎるとか、航空アクションも戦闘機のどの席に誰が載っていて、そもそも今飛んでいる飛行機は誰なのか分かり難いとか、難癖をつけようと思えば幾らでもつけられる。でも36年前の映画だから。そんなことを言っても仕方ない。36年経って映画作法の進化した時代の視点で過去にイチャモンを言うなんて卑怯。

やっぱり映画というのはできるだけ同時代で鑑賞しておかなければならないのだなと思う。その時代にしか味わえない感動というものがあるから。

 

映画の冒頭は空母から戦闘機が発艦する場面が続く。この場面なんて今観てもめちゃくちゃ格好良い。スタイリッシュ。当時観ていたならどぎもを抜かれたんじゃないだろうか。他にも戦闘機の空撮場面はどこを切り取っても美しい。

 

ジェット戦闘機、バイク、美女との恋、友情、ライバルとの競争、そして戦争。男子の好きな物がこれでもかと詰まってる。
映画の最終盤は国籍不明機とのドッグファイト。あの戦闘機はどこの国の軍隊なのか、撃ち落として国と国との戦争に発展しないのだろうか、撃ち落とされた戦闘機の搭乗員も彼の国を守るために戦っていて家族もいるだろう、そんなことを考えるのは野暮。敵が現れる、戦う、勝つ。無邪気すぎるけれど、そういうことが爽快感と感じられるのは確か。
もしもアメリカ軍ではなくて、これが航空自衛隊の映画だったならどうだろう。国籍不明機はロシアか中国か北朝鮮で、そいつらに正義の制裁を下す、そんな映画だったらどうだろう。無邪気に自衛隊の活躍に歓喜する人もいるだろうけれど、物議を醸すんではないだろうか。自衛隊、ひいては軍事力の賛美だとか。そしてそんな批判をする人たちには、お決まりのように、国防の何が悪いのか、非国民め、みたいなことも言われるんじゃないだろうか。

でもこの映画にそういう視点はない。アメリカと日本では軍隊の位置づけが違うというのがそもそもあるだろうし、時代もあるだろうし、何しろ娯楽映画なのだから。

トップガン マーベリック』の予習として鑑賞したけれど、そんなことを思いながら観た。そして何より面白かった。

何が記者を殺すのか 大阪発ドキュメンタリーの現場から/斉加尚代 著

何が記者を殺すのか 大阪発ドキュメンタリーの現場から/斉加尚代 著

大阪のテレビ・ラジオ局、MBS毎日放送でテレビ・ドキュメンタリーの作り手である筆者が、自身が手掛けた作品を元に報道の現場を記す本。

 

著者がディレクターとして制作したドキュメンタリー作品の取材過程と、そこでの様々な出来事に対する著者の考えなどが綴られてる。そのドキュメンタリー作品とは

『映像15 なぜペンをとるのか〜沖縄の新聞記者たち』

『映像17 沖縄 さまよう木霊〜基地反対運動の素顔』

『映像17 教育と愛国〜教科書でいま何が起きているか』

『映像18 バッシング〜その発信源の背後に何が』

の4作品となっています。いずれもMBS毎日放送の深夜帯にテレビ放映されたもののようです。地元局ではあるけれどテレビを持たない身であるので、どれも拝見したことはないけれど。
現代の政治や社会に少しでも関心がある人ならば、そのタイトルでどんな事柄を描いているのかは想像できるのではないかと思う。『教育と愛国』については現在映画化されて公開中のはず。見に行こうと思っています。
面白いと言ったら懸命に番組を作っている著者には軽い感じがするけれど、読了して面白かったという感想を持った。通底する記者魂みたいなものが感じられて頼もしく思うと共に、テレビメディアの中の人はこんな風にもがいて戦っている人がいるというのが感じられて、テレビを軽視する気持ちがあったのを少し反省した。

本書の書名は『映像18 バッシング〜その発信源の背後に何が』に繋がっている。

記者を特定し、バッシングという名の個人攻撃を加えることで報道や意見を封じようとする過程がつまびらかに記録されている。この手の書籍でネタバレというのもおかしいが、バッシングの正体が追跡と観測の成果として明かされているので、その謎が解き明かされるのを期待して読み進めるのも一考ではないかと思う。

本書の中でも放送局の予算が潤沢でないことが語られている。
報道、その源泉となる取材には人が動いているのだから、我々がニュースを受け取るまでには、お金が必要なのは子供でなければ分かる。分かるので、そういうメディアにお金を払うべきだとも思っている。新聞であれば、お金を払って購読する読者が沢山いれば、取材に経費もかけられるし、読者の期待にも応えられるだろう。良い報道を期待するならば、彼らに正当なお金を払うべきなのだ。そうすることによって政治を監視するメディアの機能も作用する。

でも個人的なことを言わせて貰えれば新聞を購読するような経済的余裕はない。本当に。テレビであればスポンサーのご厚意で無料で見られるだろうけれど、テレビを買い換える金もない。NHKの受信料も払えない。実際払ってない。見てないのだから払う必要もないだろうが。

そう思うと、社会を支える人々が貧困によりメディアや報道を支えることができなくなると、お金を持った資本家や公共にメディアは支えて貰わなければ生きていけなくなるんじゃないかな。で、結局金持ちの意見や考え方を垂れ流して市民はそれに洗脳されたり、大本営発表だけしか放送できないメディアができあがるんじゃないだろうか。

あまりにも妄想でSFっぽいけれど、あんまり遠い未来ではないような気がするのだよな。

大日本帝国の銀河 全5巻/林譲治 著

第二世界大戦前夜の日本に、その当時の技術では建造できない軍用機が飛来する。そしてその搭乗員は火星から来たと宣言する。
世界情勢が不穏な時代に各国の思惑が工作する中で異星人とのファーストコンタクトが進む。

 

2巻まで読んで続刊を待っている間に積読になってしまっていたので全5巻を一気に読み終えた。

第二次世界大戦前夜という時代に異星人がやって来るというファースト・コンタクト物のSF小説で、もうこの設定だけでワクワクする。そのワクワクは読み終わるまで止まらなかった。

全5巻の内、4巻までは異星人と軍隊との接触で大方の物語は進むが、最終巻になって怒涛の展開となり、これぞSFというような場面が展開される。いや、面白かった。

2巻で宇宙人の技術供与により現代のコンピューターのような演算器が登場するが、科学者が装置に命令を打ち込んで出てきた結果は

「HELLO WORLD」。

プログラミングを少しでも勉強したことが分かるこのジョークにニヤリとさせられるが、これは地球人に対する異星人からの「HELLO」とも読める。粋だなあと思う。

異星人と各国の軍隊が衝突するという展開も最高に面白いのだが、異星人が人種にとらわれず優秀な地球人を登用したり、その過程で当時は参政権すらもなかった女性が登用されて活躍するなど、社会の倫理観がまだ古い考えであった時代にもたらす軋轢も描いている。この場面では、読者は異星人の側の倫理観に近いので格別な高揚感がある。
そして登場人物の科学者は、自分が恵まれた環境と家柄で今の地位があることに思い至る。この場面も裕福な家庭環境で育った者が、より良い教育の機会を得られるといった、昨今の言葉で言えば「親ガチャ」と言われるような事柄を描いていて、現代社会でもそれに自覚的でないエリートの発言が散見されるようなことを批判的に描いている。

早川書房の広告だったと思うが
「世界のリーダーはSFを読んでいる」というものがあったはず。
SFという文学ジャンルは技術や科学が今の状態から更に進んだ時に社会にどういうことがあり、そこでどんなドラマが生まれるかを描くから未来を予見していると言われたりするが、現代社会を風刺的に描くこともできる。

そんなことを大日本帝国陸海軍と異星人との接触といった荒唐無稽でありながら格別に面白い娯楽作に織り込むのだからSF小説というのは本当にたちが悪い。(褒めてます)

シン・ウルトラマン

2022年、日本、樋口真嗣 監督作

あのウルトラマンの映画。

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正直な感想は、面白いと思えなかった。
上映中は、次の展開は面白くなるんじゃないか/なってくれ、という気持ちと、早く終わらないかな、の2つの気持ちが続いていた。
面白いと思う人もいるのだろうから、そういう人たちには刺さる部分があったのだろうけれど、自分はのれなかった。どういう部分がそう思わせるのかと思い出してみるけれど、なんだか登場人物たちの軽さが気になってしまって。だってこの映画に魅力的な大人が登場してる?

科学特捜隊が本作では禍特対となってるけれど、あの面々がどうにもこうにも。なんでみんなあんなに子供っぽいの?西島秀俊なんて良い役者なんだからどんな風にも化けられるのに、なんであんな感じなの?長澤まさみも。

映画というのは極力リアルであるべきだと思ってるんです。SFやファンタジーであっても。でもね、星間飛行が実現した世界とか、魔法が使える世界とか、そんな初期設定に文句言うつもりはない。そこんところは了解してる。でもね、人物描写というのは今の人間であって欲しいわけ。

なので言いたいのは、なんであんなに幼い感じの人ばかり出てくるのか分からない。色んな人間がいるでしょう?それが現実でしょう?どうして早口で日常生活で言わないようなことを台詞回しで言わせるの?
途中で竹野内豊が出てきた時に「やっとちゃんとした大人が出てきた!」って安心したもの。
斎藤工は良かった。特撮部分の正体不明の銀色の巨人の風体とリンクした人柄が感じられた。あのひとは良い。でも他は。

どうにも人間ドラマの部分が軽くてのれなかった。少年少女向けのアニメならそれでもいいかもしれないけれど、これもそうなの?

でもこれが今の空気かもしれない。映画はその時代を記録するから。ちゃんとした大人がいなくて軽くてふわふわした子供のような大人のいる世界が今の時代かも知れない。

ウルトラマンと怪獣、外星人が戦う、対峙する場面は迫力があってとても良かったのです。子供の頃に『ゴジラ対メカゴジラ』を観て、メカゴジラの格好良さに魅了されたけれど他の部分は一切覚えてなくて、だから自分が子供だったらこの映画はめっちゃ楽しかったのだろうと思う。でも、もう大人だから。