メッセージ

2017年、米国、ドゥニ・ビルヌーブ監督作

突如地球にやってきた異星からの飛行物体に対して言語学者は会話を試みる。

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とても静かなアメリカ映画。こういう静かな映画は好きです。賑やかなのも嫌いじゃないけれど静かさが映像として記録されている映画はとても落ち着きます。

異星人と文字による会話を成立させる過程がとてもスリリング。それを台詞ではなく映像で見せていく手腕がとても素晴らしいです。
他にも異星の飛行船内部での無重力になるギミックなどSF映画ならではの楽しみもある。そういう見せ場でどどーんと扇情的な音楽が流れたりせずに、静かで、ある意味不気味に映像と音楽がシンクロしていくのが心地良いです。

物語を語るとどうしてもネタバレになるので書かないけど、感心したところを。

主人公の言語学者と異星人が対面する場所は透明の壁で隔てられていて、そこに異星人は墨を吹きつけるようにして文字を記述していくのです。その文字を撮影して学者たちは言葉を解析していきます。で、異星人が壁の向こうで吹きつけた墨を主人公がなぞるようにすると彼等の文字が記述できる、という場面がある。既に主人公は彼等の言語体系をかなり理解している状態だったのでそれが可能だったということなのだろうけど、観ていて思ったのは、これは頭の中の思考や感情がそのまま言語として記述されるというテクノロジーなのかなと思った。
文章を書くということは思考を記述し感情を吐き出しているようにみえるけれど、そこには形を整えようという作為が働く。言いたくないこと言うべきではないことは隠すし、言いたい事を伝えるために省いた方が良いことは省略する。他にも少し格好付けたりキャラを演じたり格式を演じたりする。だから頭の中のものがそのまま文章で表現されているわけではない。多かれ少なかれ演出が混じってる。それは極端に言うと文章として出力する過程には嘘が含まれているといってもいい。
そう思うと頭の中の思考や感情が直接的に文字化するとすればそこには嘘がないわけで、異星人の特性とは嘘という概念が存在しないということなのじゃないだろうか。嘘が無ければもっと効率的に文明や文化が進化するというメッセージなのじゃないだろうか。そしてそれは嘘が蔓延することで真偽を確かめるためにコストを要する現代への皮肉みたいなもんじゃないだろか。なんてことを思ったのでした。

主演のエイミー・アダムスは映画によって全く違う人に見える。この人大好き。