文化大革命と現代中国/安藤正士、大田勝洪、辻康吾 著

一九六六年,中国を激動させ世界を驚かせた文化大革命が始まった.それは中国社会主義革命の新たな発展段階であるとされたが,八一年中共中央の「歴史決議」で大災難であったと全否定された.文革を一つの時代としてとらえ,その過程で何が目指され,いかなる結果を招いたかを,最新の資料に基づいて客観的に叙述し,文革の意味を考える.

中国の文化大革命期を中国共産党中央の政治家たちから捉えた内容。庶民、市民にとって文革とは何だったのか、どんな事が起こったのかということよりも、政治家たちの権力闘争を軸に叙述している。
文化大革命の始まりは国内で共産主義思想に協力しない反革命的な人物を批判しようとした動きだったようだが、古いものや、中華人民共和国成立前の地主や権力者をもパージし、いつ誰が反革命の濡れ衣を着せられるか分からないような疑心暗鬼の時代になっていった。思想闘争のような振りをして、その実は敵対する権力者を反革命思想だとして追い落とすような政争になってしまっている。引用すると

文革の激動がはじめて世界に伝えられたとき、中国に関心を持つ人々の間で、文革は路線(思想)闘争か権力闘争かという議論が広く行われた。だがいかなる国家、とりわけソ連の例をあげるまでもなく、社会主義国家の問題について思想=路線=権力の三者を切り離して考えること自体に無理があったようだし、現実の文革の過程を権力的側面を抜きにして理解することはできない。

ということが文化大革命の本質ではないかと思う。
結局、毛沢東指導の迷走でもあるし、彼をとりまく権力者たちの暴走でもあるだろう。そこには毛沢東の個人崇拝と中共の一部の権力者たちが大きな国の命運を握っているという寡頭政治の問題でもあると思う。

ナチスやら中国の文化大革命やらカンボジアポル・ポト政権などは他国の極端な歴史的事変だと思うかも知れないけれど、こういうことを知っているのと知らないのとでは全然違う。現代の政治家でも何も考えていない歴史に学ぼうとしない奴らは簡単に同じことを繰り返そうとするから。

雪国/川端康成 著

国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。「無為の孤独」を非情に守る青年・島村と、雪国の芸者・駒子の純情。魂が触れあう様を具に描き、人生の哀しさ美しさをうたったノーベル文学賞作家の名作。

先般、向田邦子のエッセイを読んでとても良かったので、もう少し古いものでもいけるんじゃないかと思った。『雪国』は昭和、戦前のお話だし、これほど有名な小説を読んでいないのもどうかと思って読んでみたのでした。

読んでみるとするすると読める。もう少し難しいものかと思っていたけれど。

あまり心理描写はなく、目に見えるものの記述が多い。山間の温泉街の雰囲気、自然の描写と登場人物の仕草や台詞、そういうもので出来ていて映画のようだった。映画は目に見えるもので登場人物の心理も描写するもので、役者の演技、照明、構図、調度品、そのようなもので登場人物の心情を観客に伝える。下手な映画は登場人物に心の内を語らせるという台詞で処理してしまうものだけれど。小説は映画と違って心の内を描写できるものだけれど『雪国』ではそういうものが殆どなかった気がする。とても映画的。

しかし外国の人たちはこの小説をどう読むのだろうか。日本の山間の温泉街の町並みなんて文章から頭の中に想像できるのだろうか。稀に外国文学などを読んでいてもどのような建物や部屋の様子なのか想像し難いということがあって戸惑うことがあるけれど。注釈とかがたくさんついていて分かるようになってるのかなあ。英語版を読解する能力はないから、それを読んでみようと大それたことは思わないけど。

女の人差し指/向田邦子 著

ドラマ脚本家デビューのきっかけを綴った話、妹と営んだ小料理屋「ままや」の開店模様、人形町からアフリカまで各地の旅の思い出、急逝により「週刊文春」連載最後の作品となった「クラシック」等、名エッセイの数々を収録。日々の暮しを愛し、好奇心旺盛に生きた著者の溢れるような思いが紡がれた作品集。解説・北川信

向田邦子のエッセイ集。テレビドラマや食べもの、旅に関するエッセイなど。どれも心地良い筆致だけれど、食べものに関する作が特に筆がのっているような気がする。食べものについての話題は場所と時代が変わっても永久に語られるのではないだろうか。テレビなんて食い物のことばかりやっているような気がする。

向田邦子のエッセイはどれも読んでいて気持ち良いのだけれど、なぜそうなのかは分からない。分かっていたらそういう風に書けばよいのだから。それでも無理して考えてみると、あまり対立を煽るような話題がないってことかな。ドラマの話は著者が脚本家として活躍していた経験からのお話で、同じ経験を持っている人なんてそうそういない。食べものの話も争いになりようがないし、人の旅の話にツッコミを入れる人もいないだろう。話題が平和ってことはあるかも知れない。しかしそれだけではなくて向田邦子の文体、文章が良いってことがあるんだよな。でもその理由は分からないのです。簡単に分かれば苦労しないって話。

イスラームの日常生活/片倉ともこ 著

イスラームは,いまや第三世界にとどまらず地球的規模に広がっている.その世界観が,幅広い世代にわたって,十億もの人びとの心をひきつけるのはなぜか.長年,世界各地の実情を見てきた著者が,生活体系としてのイスラームを,断食,礼拝,巡礼などの基本的な生活習慣や,結婚・職業観などから語り,その真髄を解き明かす.

 

1991年の刊行、著者は民俗学博士。
イスラム世界での日々の生活が綴られている。イスラム教によってイスラム世界の人々がどのような考え方を持ち、それが生活にどのように表れているか。また巡礼や断食月といったイスラムに特有の行事を人々は意外と楽しんで行っていることも書かれている。
例えば、断食月には日の出から日没までいっさいの食物、飲み物を口にすることが禁じられている。しかし、夜になると彼らは大いに飲み大いに食べ、街の市場では灯りがまぶしく色とりどりの食べ物が並ぶ、そこには多くの人が繰り出してお祭りのような賑がある。断食だけを苦行だととらえると厳しい宗教だと思えるけれど、イスラムの人たちが行事として楽しんでいる雰囲気が感じられて新鮮な驚きがあった。

ただ、91年の本なので、そこに描かれているイスラム世界は80年代以前だろう。今の時代は随分変わっているかもしれない。日本だって80年代と今とを比べれば昔のほうが随分牧歌的だったと思えることはあるだろうから。ただし、根本的な考え方や行動様式は変わっていないかもしれない。どの世界にも色んなしきたりや年中行事があって、それを楽しむ術を持っていたりするものだ。

少し古い本だけれど、イスラム世界のことが垣間見えた内容でとても面白かった。

右翼の言い分/宮崎学 著

平成18年(2006年)8月15日、山形県鶴岡市にある自民党加藤紘一氏の実家が放火された。この事件には、社会全体の右傾化の波を直接被って、右翼民族派の存在そのものが後景へと追いやられることへの無意識のうちの反発という側面があったのではないかと私は考える。事件に際してマスコミや知識人は、「言論に対しては言論で」という反暴力の論理を唱えたが、こうした論理が果たして有効性を持つのか私には疑問だ。腫れ物に触らないようにして、その"凶暴性"を批判し、「言論には言論で」と言ったところで、犬の遠吠えに過ぎない。彼らの懐に飛び込んで、右翼の言い分を聞いてみた。

 

 

キツネ目の男と称された宮崎学が、右翼15団体の幹部に、その右翼思想を聞く内容。図書館で借りた。

2007年刊行の書籍で、この本が出た時点では紹介文にある加藤紘一宅が右翼により放火された事件が話題になっている。

加藤紘一宅放火事件 - Wikipedia

これは小泉純一郎靖国参拝に批判的であった加藤紘一に対して右翼がこれに制裁を加えたという事件だった。

どの右翼団体幹部もこれに賛同しないまでも同情的だったり控えめではあるが支持するということを言っているのが興味深い。言論には言論で応えるべきだというマスコミの論調に対して右翼側の意見は、右翼が機関誌などで政治家を批判しても影響力はなく、マスコミも右翼の意見を取り上げようとしない、ならば肉体言語でそれに応えるというのは右翼のやり方である、という論調だった。暴力を完全に否定しないというのが右翼の姿勢だということをあらためて感じる。

ただし他の考え方においては各団体で色んな意見がある。親米路線をとるものや反米の姿勢を崩さないもの。権力者を批判するために我々がいるのだというものもいれば、自衛隊によるクーデターが必要だと唱えるものもいる。また右翼は任侠と決別するべきだというものもいれば歴史的につながりがあったもので分かち難いという者もいる。共通しているのは尊皇思想であって、他の考え方については右翼としての方向性の一致はあるものの多様性があるといってもいいと思う。

左翼の本丸である共産党は、党内で執行部に対する異論や批判を一切認めない方針だけれど、右翼というものは様々な意見があって、それが並列して存在する。そういうところが右翼のしたたかさであり、粘り強さなのだなと感じる。