雪国/川端康成 著

国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。「無為の孤独」を非情に守る青年・島村と、雪国の芸者・駒子の純情。魂が触れあう様を具に描き、人生の哀しさ美しさをうたったノーベル文学賞作家の名作。

先般、向田邦子のエッセイを読んでとても良かったので、もう少し古いものでもいけるんじゃないかと思った。『雪国』は昭和、戦前のお話だし、これほど有名な小説を読んでいないのもどうかと思って読んでみたのでした。

読んでみるとするすると読める。もう少し難しいものかと思っていたけれど。

あまり心理描写はなく、目に見えるものの記述が多い。山間の温泉街の雰囲気、自然の描写と登場人物の仕草や台詞、そういうもので出来ていて映画のようだった。映画は目に見えるもので登場人物の心理も描写するもので、役者の演技、照明、構図、調度品、そのようなもので登場人物の心情を観客に伝える。下手な映画は登場人物に心の内を語らせるという台詞で処理してしまうものだけれど。小説は映画と違って心の内を描写できるものだけれど『雪国』ではそういうものが殆どなかった気がする。とても映画的。

しかし外国の人たちはこの小説をどう読むのだろうか。日本の山間の温泉街の町並みなんて文章から頭の中に想像できるのだろうか。稀に外国文学などを読んでいてもどのような建物や部屋の様子なのか想像し難いということがあって戸惑うことがあるけれど。注釈とかがたくさんついていて分かるようになってるのかなあ。英語版を読解する能力はないから、それを読んでみようと大それたことは思わないけど。

女の人差し指/向田邦子 著

ドラマ脚本家デビューのきっかけを綴った話、妹と営んだ小料理屋「ままや」の開店模様、人形町からアフリカまで各地の旅の思い出、急逝により「週刊文春」連載最後の作品となった「クラシック」等、名エッセイの数々を収録。日々の暮しを愛し、好奇心旺盛に生きた著者の溢れるような思いが紡がれた作品集。解説・北川信

向田邦子のエッセイ集。テレビドラマや食べもの、旅に関するエッセイなど。どれも心地良い筆致だけれど、食べものに関する作が特に筆がのっているような気がする。食べものについての話題は場所と時代が変わっても永久に語られるのではないだろうか。テレビなんて食い物のことばかりやっているような気がする。

向田邦子のエッセイはどれも読んでいて気持ち良いのだけれど、なぜそうなのかは分からない。分かっていたらそういう風に書けばよいのだから。それでも無理して考えてみると、あまり対立を煽るような話題がないってことかな。ドラマの話は著者が脚本家として活躍していた経験からのお話で、同じ経験を持っている人なんてそうそういない。食べものの話も争いになりようがないし、人の旅の話にツッコミを入れる人もいないだろう。話題が平和ってことはあるかも知れない。しかしそれだけではなくて向田邦子の文体、文章が良いってことがあるんだよな。でもその理由は分からないのです。簡単に分かれば苦労しないって話。

イスラームの日常生活/片倉ともこ 著

イスラームは,いまや第三世界にとどまらず地球的規模に広がっている.その世界観が,幅広い世代にわたって,十億もの人びとの心をひきつけるのはなぜか.長年,世界各地の実情を見てきた著者が,生活体系としてのイスラームを,断食,礼拝,巡礼などの基本的な生活習慣や,結婚・職業観などから語り,その真髄を解き明かす.

 

1991年の刊行、著者は民俗学博士。
イスラム世界での日々の生活が綴られている。イスラム教によってイスラム世界の人々がどのような考え方を持ち、それが生活にどのように表れているか。また巡礼や断食月といったイスラムに特有の行事を人々は意外と楽しんで行っていることも書かれている。
例えば、断食月には日の出から日没までいっさいの食物、飲み物を口にすることが禁じられている。しかし、夜になると彼らは大いに飲み大いに食べ、街の市場では灯りがまぶしく色とりどりの食べ物が並ぶ、そこには多くの人が繰り出してお祭りのような賑がある。断食だけを苦行だととらえると厳しい宗教だと思えるけれど、イスラムの人たちが行事として楽しんでいる雰囲気が感じられて新鮮な驚きがあった。

ただ、91年の本なので、そこに描かれているイスラム世界は80年代以前だろう。今の時代は随分変わっているかもしれない。日本だって80年代と今とを比べれば昔のほうが随分牧歌的だったと思えることはあるだろうから。ただし、根本的な考え方や行動様式は変わっていないかもしれない。どの世界にも色んなしきたりや年中行事があって、それを楽しむ術を持っていたりするものだ。

少し古い本だけれど、イスラム世界のことが垣間見えた内容でとても面白かった。

右翼の言い分/宮崎学 著

平成18年(2006年)8月15日、山形県鶴岡市にある自民党加藤紘一氏の実家が放火された。この事件には、社会全体の右傾化の波を直接被って、右翼民族派の存在そのものが後景へと追いやられることへの無意識のうちの反発という側面があったのではないかと私は考える。事件に際してマスコミや知識人は、「言論に対しては言論で」という反暴力の論理を唱えたが、こうした論理が果たして有効性を持つのか私には疑問だ。腫れ物に触らないようにして、その"凶暴性"を批判し、「言論には言論で」と言ったところで、犬の遠吠えに過ぎない。彼らの懐に飛び込んで、右翼の言い分を聞いてみた。

 

 

キツネ目の男と称された宮崎学が、右翼15団体の幹部に、その右翼思想を聞く内容。図書館で借りた。

2007年刊行の書籍で、この本が出た時点では紹介文にある加藤紘一宅が右翼により放火された事件が話題になっている。

加藤紘一宅放火事件 - Wikipedia

これは小泉純一郎靖国参拝に批判的であった加藤紘一に対して右翼がこれに制裁を加えたという事件だった。

どの右翼団体幹部もこれに賛同しないまでも同情的だったり控えめではあるが支持するということを言っているのが興味深い。言論には言論で応えるべきだというマスコミの論調に対して右翼側の意見は、右翼が機関誌などで政治家を批判しても影響力はなく、マスコミも右翼の意見を取り上げようとしない、ならば肉体言語でそれに応えるというのは右翼のやり方である、という論調だった。暴力を完全に否定しないというのが右翼の姿勢だということをあらためて感じる。

ただし他の考え方においては各団体で色んな意見がある。親米路線をとるものや反米の姿勢を崩さないもの。権力者を批判するために我々がいるのだというものもいれば、自衛隊によるクーデターが必要だと唱えるものもいる。また右翼は任侠と決別するべきだというものもいれば歴史的につながりがあったもので分かち難いという者もいる。共通しているのは尊皇思想であって、他の考え方については右翼としての方向性の一致はあるものの多様性があるといってもいいと思う。

左翼の本丸である共産党は、党内で執行部に対する異論や批判を一切認めない方針だけれど、右翼というものは様々な意見があって、それが並列して存在する。そういうところが右翼のしたたかさであり、粘り強さなのだなと感じる。

 

哀れなるものたち

2024年、アメリカ/イギリス/アイルランドヨルゴス・ランティモス監督

天才外科医によって蘇った若き女性ベラは、未知なる世界を知るため、大陸横断の冒険に出る。時代の偏見から解き放たれ、平等と解放を知ったベラは驚くべき成長を遂げる。天才監督ヨルゴス・ランティモスエマ・ストーンほか、超豪華キャストが未体験の驚きで世界を満たす最新作。

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結構前から楽しみにしていた映画だったけれど、淡々と観てしまった。
つまらなかったわけではない。そこここに面白くなりそうだという予感はあった。けれど、そうなることなく映画は終わってしまった。
例えば、ベラの元夫が登場した展開では「ここからどうなるのだろう」という期待があった。あったけれど、その後の展開には「ああ、そうなるんですか、ふーん」みたいな感想しか持てなかった。結構びっくりするような結末だったけどね。でもそんなに驚きはなかった。

なぜそうなったのかと考えると、冒頭でこの映画はファンタジーだと宣言しているから、それ以降にどれだけ突拍子もない展開がおとずれても「まあファンタジーだから」と思ってしまう下地ができてたんだと思う。ファンタジー映画の展開にあれこれ言っても仕方ない。リアルじゃないとか理不尽だと言っても仕方ない。ファンタジーだから。

それでも豪華なセットと衣装、幻想的な街並みなど目を楽しませる要素はいっぱいあった。でも楽しめなかった。本当に感想は無。つまらないとも面白いとも思えなかった。ただ無理やりひねり出すとすれば、自由を求める生命力の原動力のひとつが性愛だということは分かるけれど、こんなに直接的に描かなくてもいいんじゃないの、くらいの感想。