罪の声/塩田武士 著

紳士服店の店主の男は父親の遺品の中から手帖とカセットテープを見つける。そのテープを再生すると、そこには昭和の未解決事件で使用された子供の声が入っていて、それが幼い頃の自分の声だと確信する。
一方、同じ時期に、過去の大事件をもう一度検証する難しい仕事を与えられた新聞記者の男は取材を開始する。
劇場型犯罪と言われ世間を騒がせたグリコ・森永事件を題材にしたミステリー小説。

罪の声 (講談社文庫)

罪の声 (講談社文庫)

 

 

面白かった。
企業名などは替えられているけれど、ほぼグリコ・森永事件の時系列に沿って物語は進む。読んでいる内に、事件究明もののノンフィクションを読んでいるような気持ちになって小説だということを忘れてしまうくらい。こんな風にグリコ・森永事件の犯人が今になって明らかになればとも思ってしまう。

一時期はRPGのゲームを面白がってやっていたことがあったけれど、これは結局のところ製作者が隠したお宝を探しているだけで何も有益なことはないのではないか、と思って冷めたことがある。プレイヤーは結局のところ命令されておつかいをしてるだけ、みたいなのはRPGゲームでよく言われたことだと思う。最近のゲーム事情は知らないけれど。
そんな話をした折に知人から読書も同じ、と言われたことがある。ミステリー小説などが分かり易いが、読んでいある間、犯人はあいつじゃないかこいつかも、と揺さぶられるけれど、結局は作者が隠していた犯人を知らされることになる。
紆余曲折はあるけれど、最後は作者が隠していた結論に到達するという意味ではRPGも小説も映画でも同じ、みたいなことを言われた。確かにそういう気もする。

でも本作のようにその紆余曲折が楽しければそれで娯楽としては良いようにも思う。どんな犯人像が提示されるかとあれこれ思いながら読み進めていくのは楽しいから。
本作では現実に起こった事件とリンクしていて、未解決事件が好物な人間には堪らない面白さがあった。これほどうまく騙す、というか結末を隠して連れ回してくれるなら、それでミステリー小説の楽しみとしては十分じゃないだろうか。

塩田武士さんはデビュー作の『盤上のアルファ』を読んで楽しんだ憶えがある。続編の『盤上に散る』が文庫化されないと思っていたけれど、とっくに文庫化されていて、他にも著作が幾つも出ていた。
『盤上に散る』を読んでみようかと思うが、前篇の内容をすっかり忘れてしまっている。読みたい本が増えるのは良いことだけれど。

スパイの妻

2020年、日本、黒沢清監督作

太平戦争開戦前夜、商社を経営する男は満州で日本軍の悪行を目撃し、世界にその戦争犯罪を知らせようとするが憲兵に行動を監視される。男の妻は夫に対して信頼と疑いの気持ちの間で揺れ動く。

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黒沢清の映画を観る時には身構えてしまう。

多くの映画メディアは黒沢作品を褒めちぎるし、インターネットにも賛辞が並ぶ。ましてや本作はベネチア映画祭で監督賞を受賞していて、そういったシネフィルたちが褒めそやす映画であり映画監督であることは承知している。その良さが分からないのは映画好きとして失格なのではないかと思ってしまい、何とかその良さを知ろうとして、映画を観ている間、その時間に緊張を強いられてしまう。

でも分からないのですよね。自分には黒沢清作品の良さが分からない。
勿論、熱心な黒沢信者でもないので全ての作品は観ていない。でも幾つか観ている。そして評判の高い『カリスマ』も『散歩する侵略者』も一切何も全く面白いと思えなかった。唯一『回路』は不穏な雰囲気が印象に残っているけれど。

そんな風に、なんとか黒沢清映画に感動したいと思って観たのだけれど、面白かったかと問われれば面白かったけれど、凄く面白かったかと言われればそれほどでもないし、映画として感心したのかと言われれば、それほどでもない。申し訳ないけれどそんな感想。

1940年代の街並みを再現したセットは凄いかもと思ったけれど、本作はNHKのドラマとして企画されたもので、大河ドラマで使われたセットを流用されたものみたい。スタッフもNHKのスタッフが多数参加しているらしい。
蒼井優の台詞回しは、昔の日本映画っぽくというリクエストでもあったのだろうか。原節子が喋っているみたいだった。それはそれで憑依なのかも知れないけれど。
映画の構成にしても、ここで終わりだろう、と思う場面の後に幾つかのシークエンスがあり、最後は文字でそのその顛末を説明するという有様。それは映画としてどうなの?と思ってしまった。
憲兵の連隊長の部屋は、机の前方向に登り階段がある部屋で「これは部屋ではないよな、地下室か玄関ホールみたいな所だよな」と思って観ていたが、映画雑誌を観ると昔に建てられた公共建築の玄関ホールで撮影されたらしい。変だと思った。しかし黒沢ファンから言わせると、その奇妙さが良いということらしい。ただ単に変だとしか思わなかった。

信頼している映画評論家の松崎健夫さんによると、黒沢清のホラー映画的文法でこのような歴史的な時代を題材にした映画を撮ったということが斬新で世界で評価された、ということらしいけれど、そのホラー映画的文法も良く分からない。恐いと思わなかったから。
唯一、憲兵の拷問シーンは恐かったけれど。

そんなこんなで黒沢清という映画通のリトマス試験紙に今回も落第したのでした。何が凄いんだろう。ホントに分からない。

おらおらでひとりいぐも

2020年、日本、沖田修一監督作

独り暮らしの老婦人の生活を描く作品。
原作は若竹千佐子さんによる芥川賞受賞作。

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原作を読んで映画を観ました。孤独な老人の脳内でのモノローグが大半を占める小説を、どういう風に映画にするんだろうという興味と、あの原作の味わいを損なわずに映画に出来るんだろうかという不安を持って観賞したのです。
結果は、凄い好きな映画。
観ている間ジーンとお腹のあたりが暖かくなるような映画で、期待を上回るとも言えるし、不安を払拭したとも言える良作でした。とにかく主演の田中裕子さんが可愛いのよ。

映画は行動を描くもので、派手な行動と言えばアクション。だから戦う映画が多い。戦闘はアクションに繋がるし、勝利を掴むまでの過程での葛藤や挫折や苦境はドラマになるし、分かり易い。
本作は、おばあちゃんが病院に行ったり、図書館に行ったり、墓参りに行ったりする。戦う相手がいるわけではない。主人公の行動として地味この上無い。でもそれが実生活で現実的であったりする。
派手なアクションが甘いとか辛いみたいな分かり易い味だとすると、この映画はしみじみと滲みる出汁とか旬の野菜の旨味みたいな感じ。お子様ランチでは味わえない大人の味。

老人がどんな風に生きているかを描いて、そこに悲喜こもごもがあることを知らせてくれる。これだけ高齢化だとか言われてるんだから老人の視点から世界を眺める映画があっても良いでしょう。それがこれ。
映画でも小説でも、物語に接すると主人公の視点から世界を味わうことができる。この映画を観ている間、観客は孤独な老婦人になる。だから、映画を観終わった後に自分の視点とは違うもうひとつの視点を得ることになる。老いるとはどういうことか、老いて孤独になるとはどういうことか、そういうことを老人の視点から眺める。
そういうのは大事なことで、自分の目線からしか世界を捉えていない人は独りよがりになるし独善的になるでしょう?差別主義者なんてそうだから。差別される人間の気持ちなんて考えもしないんだから。自分の目線を色んな立場の人間の視点に移せるかどうかって大事。大人でもできない人多いから。でもこういう映画を観れば自然とそれが味わえる。

でもそんな固い映画じゃないです。一種のファンタジーで喜劇的な要素も盛り込まれていて楽しいから。
なぜかリサイタルの場面になって主演の田中裕子さんがスポットライトを浴びて歌うシーンがある。歌い終わった田中裕子さんがマイクを置く場所は独りの部屋に置いてある籠で、そこにマイクを置くと「ゴトッ」って音をマイクが拾う。この場面は笑ってしまった。ファンタジックな場面なのにマイクを置いた時のノイズが入ってるざんない感じが可笑しい。

まあでもね、田中裕子さんが可愛いんですよ。アイドル映画級に可愛いですから。もうその仕草、表情、一挙手一投足が可愛い。原作を読んだ時も主人公の桃子さんに可愛さを感じたけれど、それをこんな風に見せてくれるなんて。田中裕子さんを愛でるためだけにこの映画を観に行ってもいいと思う。

田中裕子さんの若かりし頃を演じているのは蒼井優さん。お二人は、顔かたちが似ているとは言えないけれど、桃子さんの芯の強さがどちらの演技からも滲み出ていて、映画を観ている間、次第に違和感がなくなる。こういうのは二人で打ち合わせするのだろうか。やっぱり女優の力量なのだろうか。

上映時間が2時間を少し超える映画で、派手な展開はない映画ですが、ああ終わらないで、と思うくらい映画を観ている間心地良い映画。
監督の沖田修一さんの映画は今まで一本も観ていないので、これから観ていきたいです。

おらおらでひとりいぐも/若竹千佐子 著

74歳、老齢の女性のモノローグが東北弁で綴られる小説。 

おらおらでひとりいぐも (河出文庫)

おらおらでひとりいぐも (河出文庫)

 

 
方言を恥ずかしいものだとあまり思ったことがない。関西弁を普段話しているのだから地方人の方言話者なのだけれど、標準語に比べて自分達が話す言葉が劣っていると思ったことがない。寧ろ標準語では表現できないニュアンスが自分達の言葉では表現できたりするとさえ思っている。

一例を挙げると「よう言わんわ」という言葉の響きを聞くとちょっと可笑しい。標準語にするなら「あきれてものも言えない」になるだろうか。
何がしかの失敗があって、上司であったり親であったりといった上位の者へ「失敗しました」という報告をした際に相手からこの言葉が返ってくるが、「あきれてものも言えない」の固さや憤りが内包されている感じに比べて「よう言わんわ」には報告を聞いた者の脱力感が充満していると思う。空気でパンパンになった風船と完全に気が抜けた風船くらいの違いがあって柔らかさがあると思う。
同僚が「よう言わんわ」などと言われて直立不動でうなだれてそれを聞いている景色を見ると「あ、怒られてはる」と思ってちょっと可笑しくなる。自分が言われるのは極力避けたい。

作中で主人公の桃子さんは、子供の頃に

そもそも、桃子さんが東北弁を強烈に意識しだしたのは小学生のとき、一人称の発声においてであった。それまでは何の不思議もなく周りのみんなと同じく、おら、と言っていた。性差など関係なかった。それが教科書で僕という言葉やわたしという言葉を知ったときの、おやっという感覚。おら、という言葉がずいぶん田舎じみてというか、はっきり言えばかっこわるく感じられた。

と思っている。

関西には近畿以西の出身者が多くて、東北出身という人には滅多に出会うことがないのです。なので東北の人たちが自分たちの方言をどう思っているのか、生の声を聞いたことはないけれど、なんとなく自分たちの言葉を恥ずかしいと思っているということは想像に難くない。それこそ「田舎じみている」と思っているような。
それは都会が格好良くて地方(田舎)は格好悪いという植え付けられた観念なのだと思うけれど、メディアの人たちは皆都会に住んでいて、その感覚が至る所から滲み出ているので自然と植え付けられるのも仕方ない。関西というのは京阪神と連なる、地方ではあっても田舎ではない土地だからそんなコンプレックスを抱えずにいられたのかも知れない、と我が身を振り返って思ったりもする。

作中で語られる東北弁のリズムもニュアンスも読みとれないところは多々あるけれど、それでも読んでいて心地良い。方言で語られることによって血が通っている感じがして、架空の人物でなく実際に存在している誰かの言葉であるように感じられる。無名のブロガーが書いた日記などを読んで、それが美文でなくても、確かに日本のどこかにいる人が今それを書いているという現実感があるような感じ。血肉が通った言葉、文章というものの何が良いのかは分からないけれど。

主人公の桃子さんの頭の中で色んな会話や思索や想い出が繰り広げられる小説で、主人公の行動はと言えば、お墓参りに行ったり病院に行ったりと地味なことこの上ない。
映画化されるらしけいれど、本作をどんな風に映画にするのだろう。
優秀な映画は構図や色合いや背景の調度品であったり、それこそ俳優の表情や仕草で内面を表現したりするもので、簡便にやってしまうと今頭の中にあることを台詞で表現したりする。刑事の役に「きっとあいつが犯人に違いない」と言わせるのは簡単なことだが、そう思っていることを演出と演技で表現するのが映画だと思う。
田中裕子さんという演技派の女優さんが主演なのでこの小説がどんな映画になるのかちょっと期待している。

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ミッドウェイ

2020年、米国、ローランド・エメリッヒ監督作

太平洋戦争における分岐点、ミッドウェイ海戦を描いた戦争映画。

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淡々と観てしまった。

ド派手な戦闘シーンは迫力があったがゲームのトレイラーを観ているような感じがあった。ああ迫力があるなぁ、と思うばかりで、その迫力に感動するというとろろまではいかなかった。

人物の描きわけも最初は誰が誰なのか分からずにいた。洋画を観て西洋人の俳優の見分けがつかない、などと言う人がいるが、その気持ちが少し分かった。

映画の最初に日本軍による真珠湾攻撃の場面がある。日本軍が攻勢に出て圧倒している場面を観て、心躍るものが無くはなかった。強い日本軍を見てそんな気持ちになるとは思わなかったので。

戦史のようなものに明るくないからなのかも知れないが、肝心の海戦場面では、日本軍と米軍の位置関係のようなものが把握できずもやもやした。地理的な状況が頭の中に入っている人にはどう見えたのだろう。
そう思うと黒沢明の『七人の侍』は村とその周辺の位置関係がさりげなく観客にインプットされていて、やはり名作というのはそういうところを押さえているものだなあ、と関係ない映画に感心したりした。

浅野忠信が日本軍の将校として出演しているが、浅野忠信はどんな映画のどんな役を演じていても浅野忠信のような気がする。良いにつけ悪いにつけ。キムタクが何をやってもキムタクでしかないような感じ。

あまり感想はない。