解剖台の上でのミシンと蝙蝠傘の偶発的出会い/NURSE WITH WOUND

f:id:augtodec:20200604163109j:plain

ノイズ・ミュージックのクラシックは幾つもあるだろうが、NURSE WITH WOUND(NWW)による1979年リリースの本作もその中の一枚。怒涛のハーシュ・ノイズというような代物ではない。まだ時代はそこまで到達していない。

ノイズ成分よりもサウンド・コラージュのような面が目を引く。音のコラージュ作品自体は、それ以前からあるが、その出自と不穏な雰囲気を醸し出す作品世界がノイズの始祖のひとつだという事に異論はないと思う。

名盤とされるような昔のアルバムを聴いてピンとこないことはある。一方、随分昔の盤なのに今聴いても面白いと思うものもある。前者はその時代に聴いていれば先進性が感じられたのだろうけれど、時間が経ってからでは、新しさは古さに反転してしまっているので、歴史的意義を意識しながら聴くことになる。でもこのNWWのアルバムは後者。今聴いても時代性抜きにして面白い。

音のコラージュ作品でも当然、面白いものとそうでないものがある。自分で色んな音源を重ねたり切ったり貼ったりしてみると分かるが、編集の妙によって格好良い音になっているところと、ただ単に編集された痕跡だとしか思えない場所がある。その違いは何なのかは良く分からないけれど本作は確実に前者が詰まっている。

なぜそういうコラージュのようなものが好きなのかよく自分でも分からない。子供の頃にカセットテープでそういうことをして遊んでいたからだろうか。その頃にやっていたのは、好きな歌謡曲の一番聴きたいサビだけが続くテープを作ったりしていたが、編集することによって元の音楽の良さとは違う、なんだかよく分からない格好良さが生まれる瞬間があって、そういうのが楽しくてずっとそんなことをして遊んでいた。そういう経験があるからだろうか。
しかし、写真のコラージュもなんだか好きでいて、昔観たキムラカメラの写真集などは未だに記憶に残っている。なんだか歪な感じがするからだろうか。よく分からない。

1980年前後というのは、75年にThrobbing Gristleが生まれ、77年には彼等の1stアルバムがリリースされている。そして、80年にはWHITEHOUSEの『birthdeath experience』がリリースされる。日本では79年にはメルツバウが生まれ、非常階段が結成されている時代であり、ノイズやインダストリアルといったジャンルの音楽には重要な時代だと言わざるを得ない。

www.youtube.com

皆はこう呼んだ、鋼鉄ジーグ

2016年、イタリア、ガブリエーレ・マイネッティ監督作

警官に追われる男は、川に飛び込み難を逃れるが川底に沈んだドラム缶からおかしな液体に触れてしまう。
男は盗品の腕時計を知り合いに換金して貰うと、彼に麻薬の取引現場へ誘われる。取引は失敗し、男は工事現場の9階から墜落するものの生きているどころか怪我もない。男は不思議な力を得たことを知る。
死んだ知り合いの男の娘は鋼鉄ジーグのファンで、父親が帰って来ないことを男に尋ねるが彼は本当の事が言えず彼女の面倒をみるはめになる。
彼と彼女は、取引が失敗したことによって窮地に立たされたゴロツキ達に追われることになる。

www.youtube.com

ヒーロー物の主人公は清く正しい人物であって欲しいと思う。大抵は超人的な力や武器を持っていて、間違った考え方を持っている人間にそんな力を行使して欲しくはないから。
しかし、そういう定型に対してダークヒーローという、正しくない人間が超人的な力を持つというパターンもあって、既にそれも定型化していると言えなくもない。『ヴェノム』なんかはそういうお話だったと思う。

この映画の主人公は、端的に言えばチンピラ。犯罪で生活している。力を持ったことを知ると彼が先ずやるのはATMの強奪で、碌なものではない。
知人の娘は日本製アニメ『鋼鉄ジーグ』の世界にとりつかれており、精神を病んでいるように見えるが、彼女が様々な暴力にさらされて生きてきたことが所々で明かされ、それが原因でないかと思わせられる。彼女によって、自分の欲望のために力を行使するよりジーグのように人の為、世界の為に行動するよう男は仕向けられる。

日本製アニメが海外で以外と人気があることは薄らと知っている。ヨーロッパで『アルプスの少女ハイジ』が広く知られていたり、アラブで永井豪の『グレンダイザー』が人気だったり、フランスでは『シティ・ハンター』が実写映画化されたりと枚挙に暇がない。『鋼鉄ジーグ』もそんな風にイタリアでは人気があったのだろう。

ヒーロー・アニメの登場人物は一切出てこないのに、犯罪映画+ヒーロー・アニメになっているという不思議な出来栄えの映画でした。

南瓜とマヨネーズ

2017年、日本、冨永昌敬

売れないミュージシャンの男と同棲している女は、男を支える為にキャバクラでアルバイトを始める。そこで客の中年男に愛人契約を持ちかけられ、金の為に渋々承知して関係を続けるが、同棲中の彼に気付かれてしまう。以来、二人の関係は微妙なものになる。

www.youtube.com

恋愛映画。南瓜もマヨネーズも出てこない。感想もない。

恋愛映画を観ても、それぞれ好きにしはったら、くらいのことしか思えない人でなしなので、そういう映画を観る能力が欠如しているのだと思う。

主人公たちは誰も彼も自由で何も束縛されていない。自分のやりたいことをやれる環境にいてそう振る舞っている。
外的要因で恋愛が阻害されてそれを克服するというお話ならば、それは個人と外との闘いだけれど、この映画の中で恋愛がうまくいかなくなるのは全部自分達の行いのせいで、そんなの見せられても、好きにしはったら、以外の感想はない。
自由でいて、自分としてはこうありたいと思っているけれど、流されて自分の思うようにいかない、理想と離れて行ってしまう、そういう弱さを愛でるべきかもしれないが、そんな気にもなれない。

特別な事件が起こらなくても映画の中に詩情みたいなものが漂っていれば映画としては観られるので、なんとか最後まで観ることができたのだから2mmくらいは詩情があったのだろうと思います。知らんけど。

売れないミュージシャンの男を演じているのは太賀という俳優さん。この方はヤクザ映画、Vシネマなどによく出てくる中野英雄の息子さんらしい。独特の存在感があった。お父さんのようにヤクザと付き合ったりしないで欲しいです。

ブランカとギター弾き

2015年、イタリア、長谷井宏紀監督作

フィリピンの路上。
孤児の少女は家もなく街角で暮らしていたが、テレビの有名女優が孤児を養子にしたニュースをテレビで見て、お金を貯めて母親を買うことを思い付く。しかし「3万ペソで母親を買います」というビラを街頭に貼り出すが効果はなかった。
少女は盲目のギター弾きの老人と出会い、その傍で歌を歌うことを覚える。クラブで歌わないかと誘われ、寝る場所と食べ物にありつくが、店の金を盗んだと疑われ追い出されることになる。
町には2人の孤児の少年がいて、少女はギター弾きとはぐれ、彼等と行動を共にすることになる。

www.youtube.com

イタリア製作ではあるが、フィリピンが舞台の映画で、監督は日本人という珍しい映画。

フィリピンの路上で暮らすストリート・チルドレンの少女と、これも路上で暮らす全盲の老ギタリストが出会って交流する話だが、二人の関係は、友人でもなければ親子でもなく、仲間のような相棒のような、なんとも言えない関係性があって不思議な味わいがある。子供を騙す大人も出てくるし、逆に社会の底辺にいるような人が彼等を助けたりもして、映画を観ている間に苛立ちと共感の間で感情が揺さぶられる。

ギター弾きと離れて、ストリート・チルドレンの少年2人と暮らす場面では、子供たちだけで窃盗をしたりして自分達だけでなんとか暮らす。この当たりは、是枝裕和監督の『誰も知らない』に似た、淋しいけれど自由でいるような感触がある。フィリピンの町並みも、汚れて散らかっているけれど、鮮明に撮影された町の情景は、なぜか乾いた感じがして美しい。

孤児を描いた映画となると、厳しい現実を描いたシリアスな物語になりそうだが、映画全体に漂う浮遊感みたいなものがあって、現実ではないどこかのおとぎ話を観ているような気分にさせられる。その点でも『誰も知らない』に共通する雰囲気がある。

子役たちも達者でギター弾きの老人も愛すべき性格が滲み出ている。誰も嫌いになれない。主役の少女・ブランカを演じたサイデル・ガブトロ(Cydel Gabutero)以外はフィリピンの街中で見つけた人たちでプロの役者ではないらしい。よくこんな魅力的な人物を見つけてきたなという感じがする。

感動的なだけでなく、不思議な感じを味わわせてくれる映画でした。

アップグレード

2018年、米国、リー・ワネル監督作

空にはドローンが飛び、地上では自動運転の乗用車が走る近未来。ガソリンエンジンの自動車を修理して販売する仕事をしている男は、顧客であるハイテク企業の経営者に車を納品する。その帰り、妻と乗っていた自動運転車が事故を起こし、車から引きずり出された場所で妻は殺され、男は四肢が麻痺する大怪我を負わせられる。
経営者は、脊髄にチップを埋め込めば体は元通り動くようになるが、未認可の違法なものなので口外しないことを条件として手術を持ちかける。
男は手術を受け、妻を殺した犯人を独力で探そうとする。

www.youtube.com

面白かった。何も期待しないで観始めたけれど思わぬ拾いものをした。

SF映画の面白さというのは、新しいビジョンを見せてくれることだと思う。それは特撮やCGでの映像の面白さだけでなく、設定やアイデアなど。
この映画で言えば、主人公は体にチップを埋め込むことで、そのチップと脳内で会話できるようになる。体の中に相棒がもう一人いる感じ。
そのチップに体の制御をまかせることで常人には到底辿りつけないような強さと速さを発揮できるようになる。
んなことあるかい!と言ってしまえばそれまでだけれど、SFというのは嘘の科学的設定を用いてうまくこちらを騙してくれればそれで良いのであって、そんなことにつっこんでも無駄。だって体にコンピュータを埋め込んだら凄く強くなる、ってロマンがありますやんか。ロマンなんですよ、我々が求めているのは。我々って誰のことかよく分からんけど。

他にも、殺し屋の集団は腕に銃身を埋め込んでいて、肘の内側から弾を装填して掌を相手に向けて弾を発射する。アイアンマンの掌に噴射口があるような感じ。そんなややこしい手術なんかしなくても銃を持てばいいやん、なんてこと言ったら負け。だって掌から銃弾を発射するんですよ?格好良いでしょ?格好良い方が良いでしょ?

主人公がせっかく犯人を見つけ出したのに、手を下すことを躊躇したりして、何の為に犯人捜しだしたん?みたいなところや、体の中のコンピューターに頼り過ぎていて、ドラえもんに頼りっぱなしののび太ですやん、な感じもあり、他にもちょっと物語上の緩さを感じるところはあったけれど大目に見よう。
真犯人、黒幕を探す結末も、いまひとつ説得力があるとは思えないけれど、これもよしとしよう。
大甘過ぎるかも知れないが、なんとなく頑張ってるSF映画は応援したい。観ている間、結構楽しんだのだから、それで良しとしようではないか。