ミッドサマー

2020年、米国・スウェーデンアリ・アスター監督作

大学生の男は男友達4人で夏至祭のスウェーデンへ旅行に出かける計画を立てていた。折しも付き合っている彼女の姉妹と両親が亡くなったことで、彼女も旅行に誘うことになる。
到着したスウェーデンの村では歓迎されるものの不穏な出来事が起こる。

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美しい食人族映画。
食人族映画の傑作『グリーン・インフェルノ』は環境活動に熱心な大学生たちがアマゾンの山中に墜落して食人族の村に囚われ恐ろしい目に会うという映画でした。
本作は、人を食う民族ではないけれど、スウェーデン僻地の村で大学生たちが異文化の応酬を受けて恐ろしい目に会うというお話で、食人族映画と似てる構成。両者共にグロテスク描写はあるものの、本作『ミッドサマー』は全編美しいのが違うところです。それとアマゾンの奥地ではなく、飛行機と車で容易に行ける地続きの文明世界であるヨーロッパの国で起こる出来事というところに妙な恐ろしさがある。

ただ、単にお化け屋敷のような観客をびっくりどっきりさせる映画ではなくて色んな要素が詰まってる。一番重要だと思われるのは幻覚剤の使用。
村に着いてすぐ彼等は楽しむ為にそのようなものを嗜む。主人公の女性には草むらに置いた自分の手の甲から更に草が生えるのが見え頭上の木も歪んでいる。その後もお茶や煙で幻覚剤を使用する場面があり、幻覚剤での酩酊感が各所で表現され、この映画の中で行われる惨事や美しさが現実なのか幻覚なのかが曖昧ではっきりしなくなり、観客を夢の中にいるような心地にさせる。

他にも近親相姦で生まれた知的障害者や登場人物たちの心情と裏腹に表面的な態度など共感したり反発したり嫌悪したりと恐怖だけでなく色んな方向に感情が揺さぶられる。
映画は物語を映像で体験することによって自身の中に生まれる感情や情感を楽しむものなので、様々な感情を味わわせてくれる本作は傑作としか言いようがない。

分からないところも幾つかある。
黒人の青年が殺される場面で彼を見下ろす男は誰だったのか、時折出てくる顔の変形した人物はなぜそうなってしまったのか、そんな、意味のよく分からない場面もある。気の効いた映画解説などがあれば是非読みたいけれど、そういうものが載っていそうな映画秘宝はもうない。

新仁義なき戦い

1974年、日本、深作欣二監督作

広島・呉の山守組では今日も内部抗争が繰り広げられていた。

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仁義なき戦い』でお馴染みの山守組の内部抗争を描いたお話です。が、菅原文太は広能昌三ではなく別の人物。そして若頭に今まで出演していなかった若山富三郎が出てくる。でも組長は変わらず金子信雄だし田中邦衛は組長に忠実な部下として登場する。スターウォーズ・シリーズで言えば、ダースベイダーはそのまま登場するけど、マーク・ハミルハリソン・フォードもキャリー・フィッシャも別の役を演じているという感じで、配役と登場人物の辻褄はどうでもいいと割り切ってる。この時代の日本映画の自由奔放さが開放されている。スターウォーズ・シリーズなんてあんなに辻褄を合せるのに苦労しているのに。

山守組若頭の若山富三郎が刑務所で服役している間に、金子信雄若山富三郎の女に「わしの女になれ」と強要する場面がある。金子曰く「あいつは刑務所から出てきても一銭の金も持ってない、それに比べてわしは金があるぞ」と言って股間から札束を見せびらかす。金子信雄の品性下劣が爆発した場面であり、あの外道だけは許せないと思わせる最悪で最高のシーンだと思う。金子信雄だけは何があっても許せない。

脚本は『仁義なき戦い』シリーズの笠原和夫に代わって神波史男と荒井美三雄が手掛けている。監督が同じで脚本が変わって、テンポがちょっと緩くなっているのは脚本によるものだと言わざるを得ない。脚本っていかに大事なものかが分かる。

懲役太郎 まむしの兄弟

1971年、日本、中島貞夫監督作

刑務所から出てきた兄貴分と再会した弟分は連れだって神戸の街へ繰り出すが、そこでは二組のヤクザ組織が対立していた。二人の義兄弟はその抗争に巻き込まれて行くことになる。

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この『まむしの兄弟』のシリーズは本作を起点として1975年まで続く人気シリーズとなる。兄貴分を演じるのは菅原文太、彼に付き従う忠実な弟分を川地民夫が演じていて、その自由奔放さと無法さのリズムが心地良い。
ただ、極道者の義兄弟が弱い者を助けたり強い相手に立ち向かったりするドラマというのは、1961年に勝新太郎田宮二郎の主演で始まった『悪名』シリーズがあるので、『悪名』の世界感を現代(70年代)で再現した作品であり、影響下にあるのは歴然だと思うが、『悪名』よりもコミカルな部分を強調した映画になっている。

菅原文太の主演映画ということに注目すると、1973年に『仁義なき戦い』シリーズが始まって、第五作『仁義なき戦い 完結編』が公開されたのが1974年、と『まむしの兄弟』シリーズが先に始まってその間に『仁義なき戦い』シリーズが始まって終わり、やがて『まむし』のシリーズも終わることになる。その後1975年に『トラック野郎』シリーズが始まることになる。『まむしの兄弟』は喜劇的な映画であるので、味わいとしては『トラック野郎』シリーズに近いノリがあって、そう思えば、菅原文太は喜劇『まむしの兄弟』を演じつつ、シリアスな実録映画『仁義なき戦い』を演じ、やがて『トラック野郎』という喜劇に回帰すると言えなくもない。とにかく特段の映画スターだったのは言うまでもない。

本作の脚本は高田宏治で、『仁義なき戦い』の脚本家である笠原和夫の後を継いで『新・仁義なき戦い』やその後の『北陸代理戦争』などの脚本を手掛けている人だが、『映画の奈落』という『北陸代理戦争』製作の舞台裏を取材した書籍によると、笠原和夫を超える為に非常に苦労したということが書かれている。しかし、それ以前に『まむしの兄弟』というヒット作を送り出していたのなら、それほど悩まなくても良かったのではないかとも思うが、その辺りは『映画の奈落』には書かれていなかったように思う。どういう繋がりと心境があったのか少し不思議な感じがある。

もう少し映画史的なことを書くと、日活アクションシリーズが1950年代から60年代後半まであって、その代わりにこういう映画たちが興ってきたのだろうな、とも思う。あと高倉健任侠映画とか。

こういうの誰か映画関係者がきっちり日本映画史としてきちんとまとめてくれないかと思う。全部繋がってるもので影響を受けたり与えたりして日本映画は進化したのだと思うから。

 

フォードVSフェラーリ

2020年、米国、ジェームズ・マンゴールド監督作

スポーツカーの生産を目論むフォードは、フェラーリを買収しようとするが、エンツォ・フェラーリに「醜い工場で醜い車を作っていろ」と一蹴される。
怒ったフォードは、ル・マン24時間レースでフェラーリに勝つことを目標として、そのレースで勝利した経験を持つシェルビーを雇い入れ、シェルビーは凄腕のレーサー、ケン・マイルズをドライバーとして勧誘する。
かくしてシェルビーとマイルズたちは、フォードGTを開発しル・マンでの優勝を目指すのだが。

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良い雰囲気の映画だった。主役のシェルビーを演じるマット・デイモンとドライバー、クリスチャン・ベイルは言うに及ばず、その他の登場人物たちの殆どに好感が持てる映画だった。

スポーツカーを開発してフェラーリに勝つという目標の中ではフェラーリこそが敵で打ち負かす相手だけれど、敵はフォード社内にもいて、副社長が主役の二人を自分の意に沿うよう動かそうとする。でも二人はなかなか言う事を聞かない。副社長の人物造形は、組織を統括する人間の傲慢さを描いていて、そういう人間にストレスを感じたことがある人は多いはず。

ル・マン耐久レースの終盤、フェラーリに勝利することが確定したフォードは1,2,3位を独占するだけでなく、1位で走っていたマイルズに速度を落とさせて3台同時にゴールインして見せろとこれまた副社長が無理な注文を出す。ドライバーのマイルズはこれに従わないかのようだったが結局スピードを緩めて3台並んでゴールインするが規定で一位にはなれなかった。
この場面は副社長に屈したようでいて歯がゆいようにも思うが、マイルズは実質的な目標には達したのだからそれでいいのだ、という諦めのようなものがあって、苦いけれど大人の結末だなと思う。
それと映画『ミッドナイト・ラン』は、賞金稼ぎの男が犯人を見つけて時間までにLAまで連れて帰ってくる話だったけれど、時間までに連れて帰ってこれたという目標は果たしたのだから、と空港で犯人を逃がしてしまう結末だった。あれを思い出した。

主役の二人以外にも、マイルズの妻を演じたカトリーナ・バルフは夫を献身的に支えながらも肝っ玉のある女性を演じていてとても素敵だった。また、シェルビーのチーフメカニックであるフィル・レミントンを演じたレイ・マッキノンも頼りになる男で素晴らしかった。

嫌な奴はきっちり嫌な奴で、良い人はその所作、振る舞いで好人物であることが滲み出るような登場人物たちで、映画を観ている間気分が良かったのでした。レースの場面も格好良かったし。

 

Cancellar X/石上和也

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関西の電子音響、ノイズ周辺で名前を見聞きしたことのある石上和也氏のアルバム。
音はダーク・アンビエントというかノイズ混じりの電子音響。
リズムもメロディもないこのような音楽をなぜ聴くのかと言われれば、それを聴くことでリズムやメロディがある音楽では味わえない感情が湧きあがるのを期待して、という他ない。リズムもメロディも感情を揺さぶる道具として洗練されていて、このリズムであればこんな感覚を得やすい、とか、このメロディはこんな感情を想起し易いとか、そういう風に定型や方程式と言わないまでも、ある程度の型というものがある。ドラムンベースのリズムを聴いた時と民謡の歌を聴いた時とは全く違う感情が湧き起こるもので、それは誰しも否めない。
それなら、全く違う情感を味わいたい場合にどうするかと言えば、実験的で先鋭的な音楽を探し求めるしかないだろう。それが言葉にできない情感だったとしても。

一時期、石上氏はネトウヨ的な文言をtwitterで吐いていたけれど、その後どうなったのだろうか。

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