きみの言い訳は最高の芸術/最果タヒ 著

詩人である著者による随筆集

きみの言い訳は最高の芸術

きみの言い訳は最高の芸術

 

 少し前にとある音楽家が「音楽に罪は無い」とtwitterでつぶやいていた。確かに罪はないだろう。ある音楽を聴いて、それに触発された人物が殺人を犯したとしても音楽がその契機だったとは立証できないのだから罪を問われることはないだろう。というかそもそもそういうこと自体が有り得ないだろう。音楽を聴いて発狂する人間は幾らかはいるかも知れないが、そんなことはあまり起こらない。激しく陰鬱な音楽を聴いたからと言って犯罪を犯すということはない。犯罪を犯す奴がその音楽を聴いていたに過ぎない。
「音楽に罪は無い」というのは正しくその通りだとは思うが、罪を犯すほどの効力もないと云えるかも知れない。心臓が熱くなるというくらいのことはあるだろうが、人を狂わせるほどの魔力がある音楽があるなら是非聴いてみたい。チャールズ・マンソンの録音した音楽がそういうものだなんて言われたけど眉唾でしょう。きっと。

文章でなら人を動かすことは出来るとは思う。テロリストの思想的指導者といった人物はその言動、出版物が教唆に値するとして投獄されることはある。言葉で人を正しいにしろ間違っているにしろ動かすことは出来る。宗教も同じようなものではないだろうか。言葉によって広められ信者を獲得し彼等を動かす力を持つ。
科学書や経済書や教科書といったものに書かれた言葉は人を動かすものではないけれど、情報を伝達するという機能がある。それは実利的だと思う。

「詩」というものを考えたなら、詩が人を動かすことはあるだろうか。一般的に想像する「詩」が人を動かすとは思えない。人を扇動する詩というものがあるのだろうか。不勉強ながらそういうものがあるのかどうか知り得ない。

「詩」というものにあまり価値を見いだすことができないでいる。好きでないのであまり接していない、だからあまり知らないというのが本当のところです。俺の思う「詩」というものは美麗な言葉で装飾された特に機能を持たない言葉というイメージです。現実の物に例えるならばアクセサリーや貴金属のような装飾品だろうか。綺麗で美しいのだろうけれど、実用的な価値は何もない。でも価値は人々に認められている。そういうところが装飾品と「詩」は似ているような気がする。

不勉強な中でも好きな詩人はいて、唯一好きなのは山之口漠で、明治後期に生れた沖縄出身の詩人です。好きな一篇を引用してみる。

 『妹へ送る手紙』

 

なんという妹なんだろう
兄さんはきっと成功なさると信じています とか
兄さんはいま東京のどこにいるのでしょう とか
ひとづてによこしたその音信のなかに
妹の眼をかんじながら
僕もまた 六、七年振りに手紙を書こうとはするのです
この兄さんは
成功しようかどうしようか結婚でもしたいと思うのです
そんなことは書けないのです
東京にいて兄さんは犬のようにものほしげな顔をしています
そんなことも書かないのです
兄さんは、住所不定なのです
とはますます書けないのです
如実的な一切を書けなくなって
といつめられているかのように身動きも出来なくなってしまい
満身の力をこめてやっとのおもいで書いたのです
ミナゲンキカ
と 書いたのです

 という感じです。とてもみずぼらしくて貧乏くさくて駄目人間ブルースなところが好きです。こういう情感が好きなのだと思う。

「詩」は装飾品のようなものと書いたけれどお香のようなものかも知れない。ただ香りを楽しむだけの他に何も実利のないようなもの。味覚を楽しませる為に探し歩いて美味しいものを食べるけれど、やはりそこには栄養価という実利が伴う。嗅覚を楽しませるだけの香にはそれ以上の効用はない。リラックス効果だとかそういうものはあるかも知れないけど、それだって定量的なものではない。
そう思うと音楽もイメージや空気を創出して聴覚を楽しませるだけだから同じかも。詩もその言葉によってある感情や雰囲気を心の中に湧き起こすものだから同じなのかも。でも小説だって物語という構造はあるけれど、読んで何があるかというと感情が湧きあがるというだけだから同じかも知れない。何も実利はないけれどその心の中に湧きあがるものを楽しむというのはお香や音楽と似ているかも知れない。そう考えるとエンタメも文学もみなそうか。よく分からなくなった。

実利や機能を持たないけれど空気感を創出している随筆集でした。

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20 Jazz Funk Greats/THROBBING GRISTLE

 

20 Jazz Funk Greats

20 Jazz Funk Greats

 

 どんなジャンルにも押さえておく古典というものはあるもので、パンクスならSEX PISTOLSを聴いたことは必ずあるだろうし、ハードコアが好きならDISCHARGEを聴いているだろう。メタルならBLACK SABATH、ファンクならJames Brown、テクノならDerrick May、演歌なら美空ひばり、等々ジャンルの始祖という人たちはいて、そのジャンルを探っていくと先ず出会う元祖という人たちがいる。
ノイズ、インダストリアルにおいてのTGというのはそういう人たちだと思う。他にもWHITE HOUSE、SPK、MB等々いっぱいいらっしゃいますが、TGの名前はことあるごとに出てくる。

でもここら辺って殆ど聴いてないんですよね。なんでかというと高かったから。もう俺がレコード屋に通うようになった頃にはここら辺のレコードというのは高いものだった。
WHITE HOUSEなんてそのジャケットから不気味な魅力がぷんぷんしていたけれど、これを買うくらいだったら他のが2枚買える、そう思って聴かないまま来てしまった。

TGの『20 Jazz Funk Greats』も聴いたこともないのにジャケットは知っているというくらいの盤です。聴いてみると「何なんでしょう」という感じ。チープな電子音に歌とも言えない声がかぶさっている。ポップでもないし凶悪でもない。「これは何なんでしょうか」という感じ。

1979年の盤なので、その時代に聴けばこれは何か画期的だったのかも知れない。でも今聴いてもよく分からない。やはり音楽は、深堀りしてルーツを辿るのも必要なことだと思うけれど、その時代に生れたものを聴くことに大きな意味があると思う。まあ言い訳です。

手元にある秋田昌美の著書『ノイズ・ウォー』によると本作を評して

『20 Jazz Funk Greats』ではアヴァンギャルドのアイドル的存在としてそのサウンドを我々の時代の大衆的娯楽音楽に同化した。ノイズのネットワークによる悪意ある意識の培養という調節機能は、ドナ・サマー流のメカニック・ディスコの連続的リズムと浸透性のある無感動的ヴォイスという様式化された体裁をとる。ジャンク・アートの混沌としたメタフィジックスの高みから降りてきた快感サウンドがここにはあるようだ。

と書かれています。同時代で聴いていればこの文章の意味も分かったのかも知れない。

奇蹟がくれた数式

2016年、英国、マシュー・ブラウン監督

植民地下にあったインドの天才数学者ラマヌジャンが英国で認められまでのお話。

www.youtube.com

ラマヌジャンについてはwikipediaをどうぞ

シュリニヴァーサ・ラマヌジャン - Wikipedia

ラマヌジャンの伝記映画ということで期待して観に行きましたが、ちょっと凡庸な感じでした。独学で勉強した数学の能力をもつインド人を英国の権威ある人物が発見し、英国に渡ってからも不当な差別を受け、苦労しながらも成果を発表するという物語で、ちょっと映画としての起伏に欠けるんですよね。

ラマヌジャンが如何に直感的で天才肌かというものを表現するのに、権威ある人物が驚く、認めていなかった人物さえ感服する、という感じなんですけど、それだけではちょっと凄さが伝わらない。
思うに映画やドラマといった映像表現というのは目に見えない技術というものの凄さを表現するのにはとことん向いていないのだなということを改めて感じます。
学問的優秀さや工業的技術の素晴らしさみたいなものをどうしても表現できない。
よくある凄腕ハッカーみたいなものの描写も、もの凄い速度でキーボードを打つ、ディスプレイに溢れる文字列、眼鏡にディスプレイが反射してキラリ、エンターキーを押すとそれによってあらゆる電子機器がダウン、みたいな感じでしょう。

で、表現出来ないからどうするかというと、そういう偉人を描くのに人間ドラマに置き換える。恵まれない生い立ち、認められない理不尽、仲間との葛藤、苦労の末に掴んだ成功、そういった苦難の半生を描く。でもそれは人間ドラマであって、その偉人の成果を表現していることじゃない。
ちょっと前に知人と話していて、ヒットしてる映画やドラマというのは全部その中身は人情話で大衆演劇のような勧善懲悪、水戸黄門、悲恋、そんなものばかりではないか、という話をしていました。本作にも当て嵌まると思う。

映画は視覚と聴覚によって短時間で物事を体験させる方法だから無理を言っても仕方ないし、一本の映画の中に描かれていないものがあるなんて言ってもこれまた仕方ない。
しかし、学問や工業技術の素晴らしさそのものを表現する方法が編み出されたらそれは凄い映画的発明なのかも知れないなあ、と考えたのでした。

新釣れんボーイ/いましろたかし

 いましろたかし(神様)の名作『釣れんボーイ』の続編です。

新釣れんボーイ (ビームコミックス)

新釣れんボーイ (ビームコミックス)

 

 『釣れんボーイ』は主人公の漫画家ひましろ先生の日々の生活と趣味の釣りが描かれるだけのお話です。であるけれど、エッセイ漫画でもないし完全な創作でもないという微妙な空気感が心地良い名作の誉れ高い作品なのです。是非ご一読されることをお勧めします。

本作はその『釣れんボーイ』の続編となるものですが、続編って言っても連綿と続く物語があるわけでもないので相変わらずひましろ先生の日常が綴られています。身体にがたがきて病院、マッサージに通い、病気に怯え、世情に憂い、猫を可愛がり、そして釣りに行くのです。
原発幻魔大戦』以降、いましろ作品は原発反対、TPP反対、改憲反対の姿勢をとっていて、政治情勢に対するぼやきが多めになっているのが前作とは少し毛色が違うところでしょうか。ネトウヨの人は意見を異にする人は嫌いでしょうから読まない方がいいと思いますよ。

なぜか漫画講座的なものを語りだすひましろ先生が登場する一篇があるのですが、そこでひましろ先生は「マンガとはとどのつまり「文章」である」と述べておられます。深いです。
いましろ作品はその空気感が独特で気持ち良いんですよね。それは文章に例えるなら語感といったリズム、漂う空気感が心地よいのです。時に可笑しく時に悲しく、そしてなんとも言えない無常感さえも心地よい。

文章って空気を創り出すものだと思うんです。雰囲気といっても良いと思う。何を語るかよりどんな空気を創り出すかに真価が問われているような気がする。良い文章と称されるものは良い空気、独特の個性的な空気、味わったことのない情感によって新しい空気を生み出している文章のことだという気がします。言葉を連ねていって、その順列組み合わせは無限にあって、それをどう配置するかで空気が醸成される。

でも詰まるところ、その空気を創り出すのってたぶん語り口に拠るところが大きくて、それはたぶん人柄なんですよね。技巧で変化させることもできるだろうけど、それでもやはり行き着くところは人柄なんじゃないかという気がします。だって文章からはその人の人格が滲み出るから。たぶん面白い人は何を書いても面白いんだと思う。

いましろ作品が面白いのは多分いましろたかしという人が魅力的でその語り口が素晴らしいんだと思います。勿論合わない人もいるんでしょう。でもそのリズムやグルーブにのれればとても心地良い。なんてことない話であればあるほど滲み出る何かがあって面白い。

いましろ先生はずーっとこういう漫画を描き続けて欲しい。枯れていく様さえ見たい。そんな漫画です。

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別冊少年チャンピオン11月号

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なんで漫画雑誌を取り上げたのかというと、これです。

 

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ノイズユニット、ゲロゲリゲゲゲa.k.a.山之内純太郎のインタビューが載っているのです。十数年振りのアルバム『燃えない灰』が今年リリースされたということでのインタビューなのでしょうが、ゲロゲリゲゲゲの最近のインタビューって貴重だと思います。

なんでこんなインタビューが少年誌に載っているのかと思ってましたが『掟ポルシェの死ぬ気!全力音楽塾』という連載があってそこで取り上げられていました。「Vol.53」となっているのでかなり長い連載なのでしょうか。

インタビューではその昔の相棒だったゲロ30歳が実は56歳だったとか、トラウマの名曲『B面最初の曲』に収録されている皮の音は本当の皮の音だった、という下らなくも貴重なエピソードが語られています。

こういうのって良いと思うんですよね。雑誌でわけの分からないものに出会うっていうの。エロ雑誌に蛭子能収の漫画が載ってて衝撃を受けたり、おしゃれ雑誌にリリーフランキーのだめ人間コラムが載ってたりして、なんじゃこれはって思うことあったから。少年チャンピオン読者もなんじゃこれは、って思ったんじゃないだろうか。でもそういうのって大事。今ってジャンルが細分化されて嗜好に合わせた情報ばかり仕入れてしまうでしょう。わけの分からんものが世の中にあるって知っておくだけでも大事。

 

augtodec.hatenablog.com

 

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