奇蹟がくれた数式

2016年、英国、マシュー・ブラウン監督

植民地下にあったインドの天才数学者ラマヌジャンが英国で認められまでのお話。

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ラマヌジャンについてはwikipediaをどうぞ

シュリニヴァーサ・ラマヌジャン - Wikipedia

ラマヌジャンの伝記映画ということで期待して観に行きましたが、ちょっと凡庸な感じでした。独学で勉強した数学の能力をもつインド人を英国の権威ある人物が発見し、英国に渡ってからも不当な差別を受け、苦労しながらも成果を発表するという物語で、ちょっと映画としての起伏に欠けるんですよね。

ラマヌジャンが如何に直感的で天才肌かというものを表現するのに、権威ある人物が驚く、認めていなかった人物さえ感服する、という感じなんですけど、それだけではちょっと凄さが伝わらない。
思うに映画やドラマといった映像表現というのは目に見えない技術というものの凄さを表現するのにはとことん向いていないのだなということを改めて感じます。
学問的優秀さや工業的技術の素晴らしさみたいなものをどうしても表現できない。
よくある凄腕ハッカーみたいなものの描写も、もの凄い速度でキーボードを打つ、ディスプレイに溢れる文字列、眼鏡にディスプレイが反射してキラリ、エンターキーを押すとそれによってあらゆる電子機器がダウン、みたいな感じでしょう。

で、表現出来ないからどうするかというと、そういう偉人を描くのに人間ドラマに置き換える。恵まれない生い立ち、認められない理不尽、仲間との葛藤、苦労の末に掴んだ成功、そういった苦難の半生を描く。でもそれは人間ドラマであって、その偉人の成果を表現していることじゃない。
ちょっと前に知人と話していて、ヒットしてる映画やドラマというのは全部その中身は人情話で大衆演劇のような勧善懲悪、水戸黄門、悲恋、そんなものばかりではないか、という話をしていました。本作にも当て嵌まると思う。

映画は視覚と聴覚によって短時間で物事を体験させる方法だから無理を言っても仕方ないし、一本の映画の中に描かれていないものがあるなんて言ってもこれまた仕方ない。
しかし、学問や工業技術の素晴らしさそのものを表現する方法が編み出されたらそれは凄い映画的発明なのかも知れないなあ、と考えたのでした。