ボヘミアン・ラプソデイー

2018年、米国、ブライアン・シンガー 監督

英国のバンドQueenのボーカリスト、フレディー・マーキュリーを描いた伝記映画

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基本的に音楽家のことを<伝説の>とか謳うのは好きじゃないのです。だって伝説でも神話でもないから。近代の、ちゃんと履歴と歴史が残ってる時代の話なのだから正確にwikipediaにでも記録しておけばいいい話であって、別に伝聞でもなければ神話でもないので。そういうのは<売らんかなと>いうメディアの仕業であって、マスメディアには騙されないぞ的な気持ちもあるわけです。
だってクイーンなんて当時は、音楽雑誌の洋楽で好きなバンドの人気投票ではいつも1位だったわけで、全くもってマス、多数派だったのであって、当時は評価されていなかったなんて話は作り話でしかないです。もう過ぎ去った時代だからといってねつ造するのはやめていただきたいですね。

で、ね、映画の話ですけど、淡々と観てました。あー、音楽家だとかアーティストだとかいう人は色々紆余曲折ありますよね、みたいな感じで。でも終盤はなんだか泣けてしまって涙がほろほろとこぼれ落ちたのです。特にエンドロールにかぶってDon't stop me
now とか流れてさめざめと泣いてしまいました。だって音楽の為に放蕩を繰り返した人の「俺を止められない」なんて言葉はその通りじゃないですか。
物語は淡々と観ているけれど音楽に涙するという感覚を初めて味わいました。なんだろうな。物語というのは頭で理解するもんだけれど音楽は感性に直接訴えかけるもので、頭は反応していないけれど感性だけが応答しているみたいな感じをかな。それを味わいました。不思議な感覚でした。フィレディーもそうだけどバンドメンバーを演じた俳優が素晴らしかったです。

楽家が音楽雑誌などのインタビューで音楽を語るのを皆は熱心に読むけれど、あれは彼等が仕事の話を語っているのでしょう?会社員が酒場で仕事の話をしてるのと何が違うの?メンバー間の不和なんんて同僚とのいさいかいと同じでしょう?ロッキオンオン的にサラリーマンに劇的にインタビューすればいいのじゃないだろうか。できるの?できないの?できないならそれは音楽に頼ってるってことだから。

ことばと国家/田中克彦 著

ことばと国家にまつわるあれこれ 

ことばと国家 (岩波新書)

ことばと国家 (岩波新書)

 

面白く読んだ。

言葉は国家が生まれる前からあり、使われていたけれど、国境が敷かれることで『母国語』という言葉や国の言葉としての『国語』というものが生まれ、それに翻弄される人たちがいる。その様について、言語学者としての目線から見た様々な様態が描かれている。

面白かったのが、ローマ帝国の時代にはその支配地域には多種多様の土着の言語があったけれど、政治や軍事で用いられる書き言葉というのはラテン語だけであったらしい。

ラテン語だけが唯一の書き言葉であって、日常生活においてはそれと全く別の言語が話されていた、これらの土地の、その当時の言語生活の実態については、考えれば考えるほど未知の部分が多い。しかし、ごく大ざっぱに図式的に考えると、そこの人たちの言語知識のタイプは、
(1)ラテン語を書くだけでなく、母語としてもそれを話していた人
(2)ラテン語を書きはするが、自分の母語はそれとは全く違う人
(3)ラテン語を全く書かず、理解もせず、自分の母語もそれとは全く別物である人
というふうになるであろう。どのタイプの人が多いかといえば、言うまでもなく(3)が圧倒的に多い。まず女と子供は例外なくここに入る。人口の半分以上を占める女と子供は、読み書きと政治の世界からはじめから閉め出されていたために、かれらは生まれながらに自然に話していたことば、すなわち母語以外のことばを知るはずはなかったのである。

とある。
これは、今の時代でも『ラテン語』を『英語』に置き換えると通用するような気がする。エリートたちは英語も母国語(日本語)も話せるが、庶民は英語を理解しない、そういう状況に当てはまる気がする。

そしてこうも書いてある。

日本にシナ古典語、すなわち漢文が入ってきたときも同じ状況が生じた。ごく一部の、外国語(シナ語)をよくするエリート官僚、文化官僚のほかは、いっさいの文字を知らず、ただただヤマトのことばを話していたのである。もしも女までがシナ文化にうつつをぬかし、漢文にかぶれて、日常生活や育児にまでそれを使おうとしたならば、ヤマトのことば、すなわち日本語ははるか昔に忘れ去られ、この列島の上にはくずれた、ヤマトなまりのみじめなシナ語しか残らなかったにちがいない。あとでも説くように、民族の言語を、それとは知らずに執拗に維持し滅亡からまもっているのは、学問のあるさかしらな文筆の人ではなくて、無学な女と子供なのであった。

新語といわれるものがあって、インターネットで使われるスラングだとか、若者の間で使われる言葉だとか、そういうものに対して「日本語の乱れ」と言われたりもするけれど、これは日本語が生きていて変化している証で、それを支えているのは庶民であるということじゃないかと思う。

言葉の乱れを指摘する、という行為は、今まであったものを守る行為で、言葉を変化して新たに作り出す行為は自由な行為だと思うので、俺としては後者を支持します。規制や規則をはみだしたところに面白い新しいものがあると思うから。
自由過ぎて日本語がだめになるならそれはそれ。でも世の中に良いもの、美しいものが多ければそれに対する語彙は増えるんじゃないでしょうかね。人はそれを他人に伝えようとするから。言葉が汚れるのならば、それは世の中にそういうものが沢山あるからでしょう。
でも汚いものを表現する言葉が無くなればいいとは思わない。いっぱいあった方が良い。道具は沢山あって用途によって選べばいいだけだから。

ハード・コア

2018年、日本、山下敦弘監督作

生きるのが不器用な男、権藤左近は弱小右翼団体に所属しトップの言われるがまま埋蔵金の掘削作業に精を出していた。そこに流れ者の牛山が現れ、またそこに正体不明のロボットが現れる。右近の弟はロボットに埋蔵金を探させることを提案し見事にお宝を発見するのだが。
原作:狩撫麻礼、漫画:いましろたかし、のコミック『ハード・コア 平成地獄ブラザーズ』の映画化作品。

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大好きないましろたかし漫画の映画化なので期待して観にいきました。
以下、良かったところだけを。

荒川良々の牛山役がハマリ過ぎ。

石橋けいという女優さんがエロい。

康すおんという俳優さんは、ずるい小物感があってとても良い。

ダメ男の映画って邦画であまりないのではないでしょうか。そういう意味では希少価値。

あまり楽しめなかったのです。