Hidden Figures

2017年、米国、セオドア・メルフィ監督作

1960年代、コンピューター普及以前のNASAでは宇宙飛行の為の複雑な技術計算を黒人女性たちが手計算で行っていた。彼女たちは皆天才と言ってよい頭脳の持ち主だったが黒人であること、女性であることから正当な地位を与えられていなかった。
そんな環境の中、3人の黒人女性たちは、それぞれ学問の知識を活かして軌道計算に、技術者に、そして初期のコンピューターのプログラマとなっていく。が、黒人女性である彼女たちには数々の試練が待ち構えていた。

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映画でも漫画でもキメのシーンというものがあって、アクションものなら壮絶なアクションを決めた後の主人公の姿だったり、ヒーローものなら敵を倒した後のヒーローの立ち姿だったり、はたまた恋愛映画でも叶わぬ恋が成就した瞬間などがキメのシーンとして印象に残るものです。そういうものがバシッと決まっていると格好良い引き締まった映画になる。
この映画のキメのシーンはと言えば、計算のスペシャリストの女性が難解な軌道計算を解いてしまう、とか、技術者になる為に白人専用の学校に入学を許される場面とか、計算係のリーダーがIBMの大型コンピュータを独学でマスターした知識で動かしてしまう、といったものです。文章で起こすととても地味なのだけれど、それがどれもこれもキマッている。そこに辿り着くまでには、彼女たちが黒人であること、女性であることで理不尽な待遇を強いられるという経緯が描かれるから余計にぐっとくる。もうどの場面でも拍手喝采したくなる。ちょっと泣いてもうた。

黒人差別、女性差別を描いた映画だけれど、彼女たちが科学と技術というものを武器にした時に、差別なんて下らないと思わせる科学技術礼賛の映画でもあると思う。凄い感動作でした。音楽もファンキーで最高のブラックムービー。

最初、邦題が『ドリーム 私たちのアポロ計画』であったものが、アポロ計画を描いた映画ではないという指摘があり、『ドリーム』に変更された本作ですが、どっちの邦題もクソダサいので記事のタイトルは原題の『Hidden Figures』としました。

追記:2023年5月8日(月)
SF小説『宇宙へ/メアリ・ロビネット・コワル』を読み終えて、巻末の参考文献一覧によると、この映画の原作の題名が『Hidden Figures: The American Dream and the Untold Story of the Black Women Who Helped Win the Space Race』だと知った。そして邦題はこの題名からきていることに気付いた。
「クソダサい」とか書いてしまっているが、そのことを知らなかったので少し反省している。しかし「American Dream」と「ドリーム」では随分意味合いが違ってくるのではないの?という気もある。
でも知らずにキツイ言葉で書いたことはちょっとゴメン。

散歩する侵略者

2017年、日本、黒沢清監督作
失踪した夫が見つかったが別人のようになっていて奇妙な行動ばかりで妻は困り果てた。そして夫は自分が宇宙人で地球を侵略しに来たという。
一方、若い男女の体に乗り移った二人の宇宙人はジャーナリストを名乗る男を案内役に殺人を犯しながら着々と地球侵略の仕事を進める。

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久々にわけの分からない映画を観た。
以前、映画館でこの映画の予告編を見たけれどそれほど食指が動くということはなかった。なぜそんな映画を観に行ったかというと凄く暇だったから。それと単なる気紛れ。黒沢清映画のファンというのでもないので。

ホラーではないと思う。だって全然恐くないから。
コメディーかも知れない。でも全く笑えない。
SF映画かも知れないが、心躍るSF魂は感じない。
夫婦の愛を描いた恋愛映画かも知れない。でもなんだかなー。
「言葉」の信憑性に疑義を申し立てるということかも知れない。でも中途半端な感じ。
そういうもの全部が込められてるのかも知れない。そうなのかなー。

最終的に宇宙人である夫は妻から「愛」という概念を受け取り、結果的に宇宙人は侵略を止めてしまう。そんな「愛は地球を救う」みたいなお話に今時感動する人いるだろうか。ちょっと理解できない。

長谷川博巳が演じる胡散臭いジャーナリストがやけっぱちになるところは「もっとやってまえ」と一瞬だけテンションが上がりました。

BABY DRIVER

2017年、英米エドガー・ライト監督作

強盗犯の手助けをする青年、ベイビーは凄腕ドライバーだったが、やむを得ぬ理由で犯罪に加わっていた。やがてその理由も失せ、犯罪から手を洗ったはずの彼が、最期の仕事に挑む・・・

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この映画、米国が舞台なのでハリウッド作かと思うと英国の映画製作会社、WORKIN TITLEの製作なんです。WORKING TITLEというと『ブリジット・ジョーンズの日記』や『ノッティングヒルの恋人』、『ラブ・アクチュアリー』などの英国製ロマンチック・コメディーを送りだしている会社で、他のラインナップを見てもコメディーやハートウォーミングなお話が多いのです。
なので本作『ベイビー・ドライバー』も殺伐としたお話じゃない。

逃走を手助けする運転手を描いた映画というとウォルター・ヒル監督の『ザ・ドライバー』、ライアン・ゴズリング主演、ニコラス・ウィンディング・レフン監督作の『ドライブ』があるけれど、この2作は男臭いんですよね。ハードボイルドで殺伐としてる。そこが良いのだけど。

本作『ベイビー・ドライバー』は、その名も「ベイビー」と呼ばれるような若くて男前の青年が主人公で男臭さはナッシング。そして犯罪者の集団もどこかコミカルに見えてしまってあんまり恐くなんです。後半バタバタと結構人が死んでエグイ殺し方もあるんだけど、どこかシリアスさに欠けるのです。その軽さが良いという人もいると思うのだけど、ちょっと物足りない。
面白いとは思うんです。つまらなかったわけじゃないんです。でもなんだか底流に明るいムードが流れていて殺伐さに欠ける雰囲気がちょっと物足りなかったかな。

ハクソー・リッジ

2017年、米国、メル・ギブソン監督作

第二次大戦下の米国、宗教的理由で殺人を肯定できない主人公は銃を持つことを拒否し、その思想信条を理解されないながらも激戦地沖縄に衛生兵として赴くことになる。
沖縄、前田高地における日米の肉弾戦を描く戦争映画。

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この映画、戦場に参戦するまでの前半と後半とにくっきり分けられると思う。全然別の映画じゃないかと思えるほど前半と後半でくっきりと映画の色が違うのです。
前半は主人公が兵役に志願するも、その思想信条から人を傷つけることを忌避し、そのことで周囲から疎まれることになる。この部分では一切戦闘なし。寧ろ大戦を戦っているアメリカ国内が如何に平和かという描写でさえあると思う。
対して後半の戦場シーンはこれでもかという残酷でえげつない描写が繰り返される。その対比が凄い。落差が凄い。これは戦争の悲惨さを表すのに有効だったのじゃないかと思える。
戦場の残酷さを描いたということでスピルバーグの『プライベート・ライアン』が比較される本作ですが、残酷描写という点ではメル・ギブソンの方が勝ってる。爆風で人体が吹き飛ぶ様子が凄まじいんですよね。しかしこれはスピルバーグが戦場の残酷描写に先鞭をつけたからあるものでしょう。やっぱりスピルバーグは偉い。メル・ギブソンも偉いけど。

もうひとつ『プライベート・ライアン』との対比で言うと、この映画、というか戦場では米軍は攻める側なんですよね。
プライベート・ライアン』でも戦局的には攻める側だったけれど、最期の場面では連合国軍側が橋を守るという場面だったのです。ナチスドイツにこの橋を渡らせない、死守するという場面設定がなされていた。対して『ハクソー・リッジ』の米軍は侵攻する側で、そこのところは観客の心情に大いに影響があるんじゃないだろうかと思いました。
守る戦いと攻める戦いではどうしても守る側に感情移入する気がするから。沖縄が攻められているという日本人的感情もあるとは思うのだけれど。

主人公デズモンド・ドスを演じたのはアンドリュー・ガーフィールド。彼がこの役を演じる為にどんな役作りを考え、監督がどんな演出をしたのかは伺い知れない。ただこの映画を観て思ったのはドスを発達障害の青年として描いたのではないという気がする。発達障害の人たちは、健常者から見れば空気が読めないとされたり、過集中やあるものごとにこだわり過ぎると見られたりするが、ドスの生き方は人を傷つけない、人を助けるという方向に注力して周りと歩調を合わせることを度外視しているように見える。何の根拠もないけれどそう思う。そして発達障害だったとしてもその特性を存分に発揮する場面があるのだということを訴えているような気がする。

日本軍が大挙して押し寄せる場面があるのだけれど(予告編の0:35辺り)、それを観てポール・バーホーベンの『スターシップ・トゥルーパーズ』やないかい、これ。と思ってしまった。

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0:25辺りで敵であるバグが押し寄せる場面があるのだけれど、それとそっくりだと思ってしまった。太平洋戦争中の日本人なんて米国人にすれば異星人みたいなものなのでしょうか。

最後にもう一つ強く言いたいのは、主人公のお嫁さんになる役のテリーサ・パーマーさんが美し過ぎる。白衣の天使役が美し過ぎる。オーストラリアの役者さんらしいけど美し過ぎる。真剣に天使。

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もし観に行かれるならこちらも是非ご覧ください

『ハクソー・リッジ』の公開によせて | 浦添市

 

メッセージ

2017年、米国、ドゥニ・ビルヌーブ監督作

突如地球にやってきた異星からの飛行物体に対して言語学者は会話を試みる。

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とても静かなアメリカ映画。こういう静かな映画は好きです。賑やかなのも嫌いじゃないけれど静かさが映像として記録されている映画はとても落ち着きます。

異星人と文字による会話を成立させる過程がとてもスリリング。それを台詞ではなく映像で見せていく手腕がとても素晴らしいです。
他にも異星の飛行船内部での無重力になるギミックなどSF映画ならではの楽しみもある。そういう見せ場でどどーんと扇情的な音楽が流れたりせずに、静かで、ある意味不気味に映像と音楽がシンクロしていくのが心地良いです。

物語を語るとどうしてもネタバレになるので書かないけど、感心したところを。

主人公の言語学者と異星人が対面する場所は透明の壁で隔てられていて、そこに異星人は墨を吹きつけるようにして文字を記述していくのです。その文字を撮影して学者たちは言葉を解析していきます。で、異星人が壁の向こうで吹きつけた墨を主人公がなぞるようにすると彼等の文字が記述できる、という場面がある。既に主人公は彼等の言語体系をかなり理解している状態だったのでそれが可能だったということなのだろうけど、観ていて思ったのは、これは頭の中の思考や感情がそのまま言語として記述されるというテクノロジーなのかなと思った。
文章を書くということは思考を記述し感情を吐き出しているようにみえるけれど、そこには形を整えようという作為が働く。言いたくないこと言うべきではないことは隠すし、言いたい事を伝えるために省いた方が良いことは省略する。他にも少し格好付けたりキャラを演じたり格式を演じたりする。だから頭の中のものがそのまま文章で表現されているわけではない。多かれ少なかれ演出が混じってる。それは極端に言うと文章として出力する過程には嘘が含まれているといってもいい。
そう思うと頭の中の思考や感情が直接的に文字化するとすればそこには嘘がないわけで、異星人の特性とは嘘という概念が存在しないということなのじゃないだろうか。嘘が無ければもっと効率的に文明や文化が進化するというメッセージなのじゃないだろうか。そしてそれは嘘が蔓延することで真偽を確かめるためにコストを要する現代への皮肉みたいなもんじゃないだろか。なんてことを思ったのでした。

主演のエイミー・アダムスは映画によって全く違う人に見える。この人大好き。