日本再興戦略/落合陽一 著

学者で芸術家の落合陽一さんが日本国家が再び隆盛するための考えを述べる本 

日本再興戦略 (NewsPicks Book)

日本再興戦略 (NewsPicks Book)

 

 ちょっと前に 落合陽一×古市憲寿「平成の次」を語る #2 「テクノロジーは医療問題を解決できるか」 が炎上してはりました。高齢者の終末期医療、余命一カ月の医療をやめれば社会保障費が削減される、みたいなお話で、あまり感心しないなと思って読みました。だって

古市 社会保障費を削れば国家の寿命は延びる。若い世代にはいい話だけど、それでも一人あたりの利益はとても少ない。だから社会運動も起きにくい。

みたいなのって、削減された社会保障は若い世代が年をとった時にも適用されるわけで何も良いことではないでしょう。1秒考えれば分かることを尤もらしく語るのって詐欺的な話法で、それってどうなん?という橋下徹に感じる胡散臭さを感じたのです。
古市何がしの方はもう随分前に「この人はアホ」と認定したので、どうでもいいのですが、落合陽一さんという方はよくお名前を目にするけれどその意見にきちんと目を通したことがありませんでした。図書館で本を借りてみようと思ったけれど全て貸し出し中で、しゃーないので買って読んでみたのです。

とにかくカタカナが多い本でした。<ポートフォリオマネジメント><ミックスドリアリティ><トークンエコノミー>といった外来語が頻出します。注釈がついてるから意味は分かるんだけど。

内容は、色々と納得する部分はあるけれど、でもちょっと楽観的過ぎやしませんか?と思うところも多かったです。
例えば、日本にはカーストが向いている、と説いていて、かつての士農工商のような制度が向いていると続けます。身分/階級の序列ではなく職業を固定することで得られるものがあるということらしいけれど、自由を奪われることが良いと自分には思えません。
しかし士農工商という身分制度を今に置き換えると<商>を担う金融や会計のようなホワイトカラーが人気で給与も高いとされているけれど、彼等は何も生産はしていない人たちである、として、もの作りを担う<農>や<工>に対するリスペクトを回復しなければならない、と説いています。この部分は大いに感心しますし、そのような風潮の根源にある<拝金主義>を著者は批判していて、それにも同意します。
しかし、別の章で国防を語る場面では自衛隊を機械化/自動化してロボットに国を守らせればいい、と説くのですが、少し夢を見過ぎではないでしょうか。遠い将来そうなるかも知れないけれど、あくまで遠い将来だと思います。
哲学者や思想家が未来社会のビジョンを想像し語るのは有益なことだと思っていますが、ちょっとそれは夢想ではないかと思う面もありました。

現代にその萌芽がある技術(自動運転やロボット、ブロックチェーンなど)を日本で普及させることができれば日本は再び先進国として返り咲くというお話も、確かにそのようになればよいのですが、著者がこの本でカタカナの言葉を頻繁に使うように、その技術も考え方も外来のものでしかないのではないでしょうか。カタカナの言葉が頻出すればするほど日本が産んだものが少ないのだということが分かります。もう西洋を見習うということをやめる時代だ、とも書かれていますが、遅れをとっている面は多々あるのではないでしょうか。それが挽回できればいいでしょうが。

著者が科学と技術にとても信頼をおいていて、未来はそう暗いものではない、と語ることはとても重要で、そのような気分を拡散し増幅していく人が必要だというのは分かります。暗い将来を説く人よりも楽観的な未来を伝える人が人気がでるものですし。大抵そういうものだと思います。

著者は教育がとても重要であると説いています。大学関係者でもあるからそう思っておられるのでしょう。もしも著者がNHK教育の番組に出演して子供たちの人気者になり、明るい希望を持たせることができれば20年後くらいには楽観的な大人が多数になるのかも、みたいなことを夢想したのでした。

The young persons' guide to modular synthesis 1/V.A.

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京都のレコード店へ随分久しぶりに行くと、店の売り場は縮小していてなんだか少し淋しい気持ちになった。こうなるのも、あまり買いに行かない自分みたいな人間のせいなのだとも思った。
しかし、レコードやCD、カセットが並ぶ棚を見ていると欲しいものが山のようにある。あれも聴きたいこれも聴いてみたいと思ったが、モジュラーシンセだけで作られた電子音楽であるというPOPに魅かれてこのCDを購入してみた。というか久しぶりにCDを買った。

モジュラーシンセというのはシンセサイザーの機能がモジュール化されており、色んなモジュールを持って来て繋げて音を出すというシンセサイザーで、最近ちょっと流行している模様です。こんなやつ

www.youtube.comとても面白そうだと思っているのだけれど、色々なモジュールを買い足していくということになるともの凄くお金がかかりそうなので絶対欲しくなったらあかんやつです。しかし、この、無数のつまみとケーブルというビジュアルを見ていると男子なら欲しくなるのは仕方ないのではないだろうか。パネルに謎のスイッチが沢山ついてるのって恐らく地球防衛軍の基地みたいに見えるからではないか。幼児体験で植え付けられてるんだと思う。

CDを聴いていると、それがモジュラーシンセで奏でられていると思うだけでワクワクする。こんな演奏ができるのか、こんな浮遊感のある音色がでるのか、みたいな面白さがある。電子音というのは電子音の振る舞い、というか電子音らしい音色というものがあるので、そういうのが好きだからとても心地良い。
なぜ電子音が好きなのか考えても、好きなものに理由はないような気がするが、機械を通して音楽を奏でるという一回クッション、というかフィルターを挟んでいるのがいいのかも知れない。楽器から出てくる音は機械の音だけれど、演奏しているのは人間であって、演奏する操作するというフィルターを通して演奏者の人柄が出るというか。車でも運転すると荒かったり慎重だったりする人柄がでるような。デトロイト・テクノなどは機械を通してブラックミュージックのソウルが滲んでいるのが良かったはずだし。でもロックンロールだって激情をぶつけているようでも一回楽器を通しているのだしな。音楽というのは元々そういうものか。しかし絵を描くのも絵筆を通して頭の中のビジュアルを再現しているのだからみな同じか。

裏ジャケットには各曲に使用されているモジュラーシンセの機種がずらりと書いてある。これを頼りにどんな機種なのか検索してみたりすると欲しくなるので絶対調べたらあかんやつ。

極私的2018ベスト

年末なので

■映画
 『立ち去った女』

augtodec.hatenablog.com フィリピン映画というものを観たことがなかったけれど、この映画の、というか映像の余韻がずっと心の中に残っている。4時間ほどの映画だけれどもう一度観たい。しかしこういう映画はアマプラにはないし、ツタヤにもないのではないだろうか。映画館で観ておかないとなかなか体験できない映画だと思う。

次点
『僕の名前はズッキーニ』

augtodec.hatenablog.com人形アニメーションというものが大好きなので、その贔屓目はあるとは思うのだけれど、孤児院とそこにいる子供たち、という話を暗く悲しいものとせずに明るく可愛く表現できたのは人形アニメの味わいがあればこそだと思う。泣ける人形アニメでした。

映画はあまり本数を観ていないのもあるけれど、心にぐさっと突き刺さる映画があまり観られなかったかな。自分的には不作の年でした。


■読書
 『独裁者のためのハンドブック』

augtodec.hatenablog.comもの凄く雑にこの本の要旨をまとめるならば、為政者は支持者に何らかの見返りを与えることでその権力を維持する、そして独裁的な権力者ほど少ない支持者に足して見返りを提供する。それは民主な政権であれば選挙民という大多数に見返りを提供することからも自明である、ということだと思います。

この本を読んだ後に政治関連のニュースを見聞きすると、ああこれはあの本に書かれていたことと同じだなあ、と思うことが多々あります。直近で言えば、入管法改正の元で行われようとしている外国人労働者の受け入れ拡大について。これは選挙民という大多数よりも労働者の不足に悩む資本家と経営者に向けて便宜を図っていることでしかなく、少ない支持者に見返りを提供している典型だと思います。

次点
『東の果て、夜へ』

augtodec.hatenablog.comロサンジェルスでギャングの一味として暮らす少年が、人を殺して来いと命令され、大陸の東へ旅をするお話。
映画化すればいいんじゃないだろうか、と思った一作。


■音楽
該当なし
今年は音楽関連の記事を何も書いてない。ライブにも1回も行ってない。新しい音楽に殆ど出会う事なく暮らした1年間でした。


■その他

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先日、TOYOTAの86に乗せて貰ってちょっと運転もさせて貰いました。で、これが最高。もうね、運転席と地べたがくっつくんちゃうかと思うくらいに車高が低くて、こういう車に乗ったことなかったので新鮮過ぎて。それとアクセルを踏むとぐっと後ろから押される感じで、FRスポーツの車ってこんな感じなのか、というのを味わった。で、ミッションなのに街乗りでもめちゃ乗り易いの。まあ渋滞の時とかはATの方が楽なのは当然だけど、普通に街乗りでも面倒くささを感じない。それよりも走ってる時の楽しさの方が何倍も上。これが今年の中で一番楽しかった。

 

ボヘミアン・ラプソデイー

2018年、米国、ブライアン・シンガー 監督

英国のバンドQueenのボーカリスト、フレディー・マーキュリーを描いた伝記映画

www.youtube.com

基本的に音楽家のことを<伝説の>とか謳うのは好きじゃないのです。だって伝説でも神話でもないから。近代の、ちゃんと履歴と歴史が残ってる時代の話なのだから正確にwikipediaにでも記録しておけばいいい話であって、別に伝聞でもなければ神話でもないので。そういうのは<売らんかなと>いうメディアの仕業であって、マスメディアには騙されないぞ的な気持ちもあるわけです。
だってクイーンなんて当時は、音楽雑誌の洋楽で好きなバンドの人気投票ではいつも1位だったわけで、全くもってマス、多数派だったのであって、当時は評価されていなかったなんて話は作り話でしかないです。もう過ぎ去った時代だからといってねつ造するのはやめていただきたいですね。

で、ね、映画の話ですけど、淡々と観てました。あー、音楽家だとかアーティストだとかいう人は色々紆余曲折ありますよね、みたいな感じで。でも終盤はなんだか泣けてしまって涙がほろほろとこぼれ落ちたのです。特にエンドロールにかぶってDon't stop me
now とか流れてさめざめと泣いてしまいました。だって音楽の為に放蕩を繰り返した人の「俺を止められない」なんて言葉はその通りじゃないですか。
物語は淡々と観ているけれど音楽に涙するという感覚を初めて味わいました。なんだろうな。物語というのは頭で理解するもんだけれど音楽は感性に直接訴えかけるもので、頭は反応していないけれど感性だけが応答しているみたいな感じをかな。それを味わいました。不思議な感覚でした。フィレディーもそうだけどバンドメンバーを演じた俳優が素晴らしかったです。

楽家が音楽雑誌などのインタビューで音楽を語るのを皆は熱心に読むけれど、あれは彼等が仕事の話を語っているのでしょう?会社員が酒場で仕事の話をしてるのと何が違うの?メンバー間の不和なんんて同僚とのいさいかいと同じでしょう?ロッキオンオン的にサラリーマンに劇的にインタビューすればいいのじゃないだろうか。できるの?できないの?できないならそれは音楽に頼ってるってことだから。

ことばと国家/田中克彦 著

ことばと国家にまつわるあれこれ 

ことばと国家 (岩波新書)

ことばと国家 (岩波新書)

 

面白く読んだ。

言葉は国家が生まれる前からあり、使われていたけれど、国境が敷かれることで『母国語』という言葉や国の言葉としての『国語』というものが生まれ、それに翻弄される人たちがいる。その様について、言語学者としての目線から見た様々な様態が描かれている。

面白かったのが、ローマ帝国の時代にはその支配地域には多種多様の土着の言語があったけれど、政治や軍事で用いられる書き言葉というのはラテン語だけであったらしい。

ラテン語だけが唯一の書き言葉であって、日常生活においてはそれと全く別の言語が話されていた、これらの土地の、その当時の言語生活の実態については、考えれば考えるほど未知の部分が多い。しかし、ごく大ざっぱに図式的に考えると、そこの人たちの言語知識のタイプは、
(1)ラテン語を書くだけでなく、母語としてもそれを話していた人
(2)ラテン語を書きはするが、自分の母語はそれとは全く違う人
(3)ラテン語を全く書かず、理解もせず、自分の母語もそれとは全く別物である人
というふうになるであろう。どのタイプの人が多いかといえば、言うまでもなく(3)が圧倒的に多い。まず女と子供は例外なくここに入る。人口の半分以上を占める女と子供は、読み書きと政治の世界からはじめから閉め出されていたために、かれらは生まれながらに自然に話していたことば、すなわち母語以外のことばを知るはずはなかったのである。

とある。
これは、今の時代でも『ラテン語』を『英語』に置き換えると通用するような気がする。エリートたちは英語も母国語(日本語)も話せるが、庶民は英語を理解しない、そういう状況に当てはまる気がする。

そしてこうも書いてある。

日本にシナ古典語、すなわち漢文が入ってきたときも同じ状況が生じた。ごく一部の、外国語(シナ語)をよくするエリート官僚、文化官僚のほかは、いっさいの文字を知らず、ただただヤマトのことばを話していたのである。もしも女までがシナ文化にうつつをぬかし、漢文にかぶれて、日常生活や育児にまでそれを使おうとしたならば、ヤマトのことば、すなわち日本語ははるか昔に忘れ去られ、この列島の上にはくずれた、ヤマトなまりのみじめなシナ語しか残らなかったにちがいない。あとでも説くように、民族の言語を、それとは知らずに執拗に維持し滅亡からまもっているのは、学問のあるさかしらな文筆の人ではなくて、無学な女と子供なのであった。

新語といわれるものがあって、インターネットで使われるスラングだとか、若者の間で使われる言葉だとか、そういうものに対して「日本語の乱れ」と言われたりもするけれど、これは日本語が生きていて変化している証で、それを支えているのは庶民であるということじゃないかと思う。

言葉の乱れを指摘する、という行為は、今まであったものを守る行為で、言葉を変化して新たに作り出す行為は自由な行為だと思うので、俺としては後者を支持します。規制や規則をはみだしたところに面白い新しいものがあると思うから。
自由過ぎて日本語がだめになるならそれはそれ。でも世の中に良いもの、美しいものが多ければそれに対する語彙は増えるんじゃないでしょうかね。人はそれを他人に伝えようとするから。言葉が汚れるのならば、それは世の中にそういうものが沢山あるからでしょう。
でも汚いものを表現する言葉が無くなればいいとは思わない。いっぱいあった方が良い。道具は沢山あって用途によって選べばいいだけだから。