東の果て、夜へ/ビル・ビバリー 著

ロス・アンジェルスの片隅でギャングの一味として麻薬を売買する「家」の見張りを担っていた15歳の黒人少年イーストは、ボスに命じられて組織の邪魔になる男を殺す役目を命じられる。4人組となった少年たちは北米大陸の東へ人を殺す旅にでる。 

東の果て、夜へ (ハヤカワ・ミステリ文庫)

東の果て、夜へ (ハヤカワ・ミステリ文庫)

 

 犯罪小説でありロード・ノベルである本作は少年たちの成長譚でもあり、とても感動的な物語だった。
「ボックス」と言われるLAの片隅の地区から出たこともなく、その中で麻薬売買をする「家」の見張りをすることで主人公の黒人少年は暮らしている。そして、その主人公の旅が描かれ、そこには他所の町では黒人であることが奇異に見られることや、チームとなった同じく黒人の少年たちとの葛藤や邂逅が描かれる。

なぜ小説を読むのだろうと考える。直接的には面白い物語と出会いたいから、と答えるしかない。ミステリーであれば、そのトリック、どんでん返しを味わいたいからだろう。そういうものを読めばスカッとして気分が良いから。快楽を求めて読んでいる。しかしそれだけだろうか。

なぜ小説を読むのか、なぜそれが楽しいかと考えると、恐らく自分と違った境遇の人間の心情を知ることができるから、ではないだろうか。
俺の人生において、LAでギャングとして生きることも、そこに所属する黒人少年として生きることもないだろう。絶対ない。極東の黄色人種として生まれた自分が黒人として生き、その境遇を味わうことは生まれ変わったりしない限りあり得ない。

でも小説を読んでいる間、読者である自分は黒人少年になっている。人を殺す任務を命じられた少年の心情を、緊張感を、ストレスを味わう。そういう心境で西海岸から東へ北米大陸を縦断する道中の景色をギャングの黒人少年として見る。そうやって読書でいる間、自分と違う人間の境遇、視点を知ることになる。

人の気持ちなんて想像しても仕方ないという人もいる。あれやこれやと他人の気持ちを察しても仕方ないというのも分からないでもない。そんなことを考えてもきりがいないというのも分からないでもない。しかし自分と違う境遇、立場の人間の気持ちは想像してみるしかない。沢山の色んな境遇の人と話をして色んな人の立場を知ることで人は大人になるけれど、無限にある他者の人生を知ることはできない。
でも小説ならそれが垣間見える。

大人になるということは世間を知るということで、それは色んな人の色んな事情を知ることだと思う。それは色んな人と出会うことで磨かれる。
誰しも自身の経験から法則を生み出してそれを基に世の中を計る。だから自分の観測範囲にない人の立場を置き去りにしがち。差別的な言辞を吐き出す人間は差別される人間の立場を知ることもないし知ろうともしない。
けれど小説を読むことで観測範囲にいない人間の立場を擬似的に得られるのだと思う。
そういう経験を思索をしなかった大人は歳をとっただけの子供でしかない。