小杉武久 音楽のピクニック@芦屋市立美術館

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小杉武久さんというのは1950年代から活躍している前衛音楽家です。タージ・マハル旅行団というバンドに在籍していた人で『ライブ・イン・ストックホルム1971』という盤が凄く好きで一時期よく聴いていました。70年代にこんな即興音楽があったのかという驚きもあった。

美術展は氏の活動の軌跡を紹介するもので、正直どんな人なのか知らなかったのがよく分かるものでした。60年代、70年代のライブ告知のチラシやポスターが展示されていてそのグラフィックが凄く格好良くて。時代は変わっても格好良いものは変わらないのだと思いました。
他には電子回路で組んだ微音を出す装置も作品として展示されていて、ただ「ジジッ」と音を出してるだけなのだけれど、そういうものが展示されそれを鑑賞することが面白い。こういうものだったら俺でも作れるんじゃないかと思わせる簡素さも良かった。なんか色々やる気になるというか。

ただ、小杉氏は東京芸大を出た音楽のエリートといっていい人で、だからこそ、その活動がこうやって認められてもいるし作品が美術館にも展示される。でも氏の作品の電子回路が「ジジッ」と音を出すものだけを見て誰が作ったものかも知らないならそれを面白いと思えるのだろうかということは考える。というか前衛音楽や即興音楽といったジャンル名と記名性を取っ払えばやってることはノイズミュージックをやってる人と同じじゃないのか、とも思う。自分にしてもこれを美術館で見るから面白いと思うのであって、日本橋の電子部品店の店頭ワゴンにこれがあっても面白いと思えるのだろうかと。たぶん思わないだろう。それはやっぱり作った人の名前に惑わされているだけで音やその作品だけを評価してるんじゃないのだろうな。そういうところになるべく惑わされずに音楽を聴きたいけれど永久に逃れられないのかも知れない。

そんなことを考えました。

ボーダーライン

2016年、米国、ドゥニ・ヴィルヌーブ監督作

誘拐事犯専任のFBI女性捜査官は、誘拐事件の根源であるメキシコ麻薬カルテルの大元を検挙したいことから国防総省の活動に出向することになる。しかし、傍観者として参加させられるだけでしかない。やがて彼女は同行する謎の南米人と共に危険な犯罪捜査に巻き込まれて行く。

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ドゥニ・ヴィルヌーブ監督の『メッセージ』、『ブレードランナー2049』と観てきたが、それ以前の作品を観ていない。ということで観賞した本作ですがヴィルヌーブ作品の静けさというものが既定のものだという感じがした。とても静かなアメリカ映画だった。音楽や音響の問題だけでなく間の取り方みたいな感じだろうか。兎に角静か。でもそれは派手なハリウッド作に慣れた気分がそう言わせるのかも知れない。現実の世界は日常の行動のバックに派手なBGMとか流れないから。

構造が少し変わっていて、主人公として設定されているのはエミリー・ブラントが演じる女性FBI捜査官であるが、本当の主人公はベニチオ・デル・トロ演じる謎の南米人だと言っていい。エミリー・ブラントは終始、蚊帳の外で捜査に同行している立ち場でしかない。なぜその立ち位置であるのかも映画の中で明かされるけれど、観客は傍観者の目を通して映画の物語を追うという構造になっていて、少し変わった視点から物語を観察することになる。映画でも小説でも物語の新規性ではなく、構造の新規性を見せてくれるものはとても面白い。漫才だとジャルジャルとか。

傍観者を通して観客は物語を追うことになるけれど、最後には辻褄が合い、納得することになる。とても整合性がとれている。ほころびがない。そう思うと『ブレードランナー2049』で完璧な続編を作ったのもそういうことなのかなとも思う。

まだまだヴィルヌーブ作品は観てみたい。

アル中病棟/吾妻ひでお

アルコール中毒になり入院した経験をもつ著者が病棟での生活を記録する実録漫画。 

失踪日記2 アル中病棟

失踪日記2 アル中病棟

 

 実録漫画とは言いつつも吾妻ひでおさんのまるっこい絵柄で描かれる漫画には暗いどろどろしたところはないです。病棟にいる色んな患者の奇妙な行動が描写されギャグ漫画として成立しているので面白く読める。実際はアル中なんて悲惨この上ないことだろうけどそこは作者の腕前なのでしょう。

ちょっと前にはてなでパチンコ中毒で身を持ち崩して生活保護に至ってしまった人の記事があって、それに対してパチンカスだとか、パチンカスなんて言葉を使って差別するな、みたいな話題があった。大方はパチンコで借金をこさえて生活が破綻するなんて迷惑極まりないといった意見のように見えた。
確かにその通りではあるけれど、ギャンブル依存、アルコール依存というものにそれほど厳しい目を向けることができない。なんだかそうなってしまう人の弱さの方に共感してしまって。それは自分が弱い人間だから自分を肯定する為にも弱い人間を肯定しようという気持ちなのかも知れない。あまり強い人に憧れないから。成功した経営者の独白のようなビジネス書とか読みたくないし。でもあれはギャンブルに勝った人間の物言いでしょう?万馬券を当てた人間の語る競馬必勝の法則とどれだけ違うというの?会社経営なんて知力と努力も必要だろうけど時勢や運に恵まれたことも大きいいのではないだろうか。それと周りの人間、社員。それを全部自分の手柄みたいに言うの大袈裟だと思うのだけど。あーいう偉いさんの説く修身とか説教とか嫌いだし。
中島らもみたいに自身のアル中経験を文学に昇華させてしまう人の方がよっぽど好きだわ。弱さと知性を兼ね揃えてる人の方が好きだ。ただ強いだけのおっさんは嫌い。

吾妻ひでおの『アル中病棟』も自身の弱さとアル中に陥ってしまう人々の弱さがその滑稽な行動の裏にあることが読み取れてとても愛らしい漫画です。身内にいたらかなわん人やなと思うんだろうけど。

明るい夜にでかけて/佐藤多佳子 著

トラブルを抱え大学を休学し、生活をリセットする為に親元から離れて深夜のコンビニで働く主人公の男子は深夜ラジオのファンで、かつてはちょっと名の知れたハガキ職人だった。彼の元へ同じく深夜ラジオ好きの級友や風変わりな女子高生、ニコニコ動画で歌を披露するコンビニバイトの先輩が集まって来る。 

明るい夜に出かけて

明るい夜に出かけて

 

 高校生から20代中盤までの男子や女子を描いた小説で青春小説といって良いものだと思います。佐藤多佳子さんの作品はどれも悪人がでてこない小説で本作もその通り。読んでいる間ずっと楽しいです。

アルコ&ピースオールナイトニッポンという深夜ラジオを軸に話は展開していきます。女子高生はその番組で強者の葉書職人。滅多に貰えない番組ノベルティーを彼女が持っているのをみつけて主人公はつい話しかけてしまったり、自分のラジオネームを明かしてしまったりする。そんな風に物語は進んでいく。
読んでいて具体的な番組名が出てくるのってどうなのだろう、と思っていたけれどこれはこれでいいのじゃないかと思えました。普遍的な物語にしようとすればそれらしい架空の番組を設定するのだろうけれど、実在の番組名を使うことで今現在を描いている感じがする。他にも、LINEで連絡を取り合ったり、ニコ動で生放送をする場面があったり、現代の若者の習俗を描いていると思う。現代をきっちり描くことで時代の記録になるわけだし。
明治、大正時代の小説を読んでいても時代を意識して読むわけだから、この小説も2010年代のお話だと意識して読むことでその時代を感じる資料的な価値もあるのじゃないだろうか。

一昔前にはラジオって小さな交流の場所だったと思う。葉書を送り、それが読まれたりすることでなんだか番組のリスナー同志で仲間意識が芽生えたりする感じ。番組のイベントとかもあって大いに盛り上がったりして。でも今はインターネットとスマホの時代でSNSがあってラジオはそういう求心力を持っていない。それを今の時代の物語として深夜ラジオとSNSと現実での交流にまとめあげたのは目の付けどころが凄いのじゃないかな。佐藤多佳子さんの小説は『しゃべれどもしゃべれども』では落語、『神様のくれた指』ではスリ、『一瞬の風になれ』では陸上の短距離走、と少し人がとりあげない題材を起点にそこにる若者たちの機微を描いていてどれも素晴らしいです。

読んでる間ずっと心地良く、家に帰ればまたあの本の続きが読める、と楽しみになるようなそんな小説でした。佐藤多佳子さんの作品はどれも読後感といわず読中感がとても良いです。

立ち去った女

2016年、フィリピン、ラヴ・ディアス監督作

1997年、フィリピンの地方の町。女は30年間刑務所に服役していたが真犯人が判明したことで釈放される。犯人は刑務所で親しくしていた女囚で、真相を告白した後自殺していた。しかし黒幕がおり、今は豊かな暮らしをしている元恋人だと知る。出所後実の娘には会えたが息子は行方が知れないという。息子のことを案じつつ元恋人への復讐を企てる彼女は貧しい行商の玉子売りや浮浪者の少女、女装したゲイの男たちと知り合う。そして玉子売りの手引で拳銃を手に入れるのだが…

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神戸の元町映画館で観賞。
チケット購入時に4時間弱の映画で途中休憩がないと知らされる。知らなかった。そんなに長い映画だなんて。

映画が始まるとハリウッド映画なら割愛するようなシーンが続く。この調子で4時間続くのかと少し憂鬱な気持ちだった。しかし映像の美しさに次第に引き込まれて行く。
予告編の通りモノクロの映像なのだけどそれがとても美しい。超高精細の画像を見せられているようで画面の端から端までくっきりとした像が映し出される。そして白と黒のコントラストが強く、影になった人物の表情は見えないほど。でもその映像が美しい。
そして全てのシーンの奥行きが深い。人物が手前から向こうの方に歩いて行くというシーンでは最初画面からはみだすほどの人影が向こうに行くほど小さくなる。当たり前のことだけれどそれがくっきりと分かる。何百というレイヤーを重ねているよう。たぶん照明の効果で奥行きが表現されているんじゃないだろうか。それとピント。あと構図。色んな効果が使われているのじゃないだろうか。とにかく立体的で映画の中の世界が深いことを見せてくれる。映像が美麗で浮浪者の少女の髪を洗う場面、貧しい家の軒先、うらぶれた街角、そんなシーンさえ美しい。

終盤、主人公の女は息子の消息を辿る為にマニラに赴く。息子の写真を印刷したビラがマニラの裏通りに散乱する場面がただただ続く。この場面はリアルじゃない。本当にありそうな景色じゃない。でも映画だから許せる。許せるというか、こういう異世界のような場面を見せてくれるからこそ映画の意義はある。脚本が、演出が、映像が、リアルであるかどうかにこだわっていると映画の魅力を観損なうことになる。幻想的だから良い映像というのもある。

4時間弱の間退屈する間もなく、このままずっと続けば良いのにとさえ思った。凄い映画。

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