ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー

2016年、米国、ギャレス・エドワーズ監督
帝国軍の究極兵器、デス・スターの開発者を父に持つ女性は反乱軍に雇われデス・スターの設計図を盗み出す任務に挑む。

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第一作『スター・ウォーズ』の前日譚となるお話で、本編の物語とは違う登場人物たちが活躍する作品です。とはいえエピソード4との整合性には気を使っている作りになっています。
アニメでは派生作品はあるようですが、実写映画による外伝物は初ということで期待して観ました。

色々つっこみ所はあったけれど基本的に面白かったです。スペースオペラなので細かいこと言ってもしょうがないから。
スターウォーズの魅力って、驚きのビジュアルにあると思うんです。初期3部作で作り上げた設定と世界観があって、その世界を視覚化して見せてくれるという魅力がある。
第一作から暫くはCGのない時代の作品で、その驚くべき視覚体験が素晴らしかったし、特殊撮影がどうなってるのかという驚きがあった。続くep1~3はCGでどれくらい凄い世界を見せてくれるのかという期待もありました。
CGでの技術が発達して普及した結果、その技術自体に驚くことは無くなったわけで、だったらどうするかというと映画的に盛り上がる映像を創り出さないといけない。本作はその辺りに挑戦してる感じがします。砂漠の中の町とその真上に浮かぶ巨大宇宙船や市街戦で歩行する兵器が襲ってくる場面、南国のような惑星で繰り広げられる戦闘機同士のドッグ・ファイト、巨大宇宙船をタグボートのような小さな宇宙船で押してぶつけてしまうギミックなど映像としてとても楽しめる場面が多かったです。SF映画の楽しさという点では申し分ないのじゃないでしょうか。

登場人物たちも完全な善といった感じではなく陰のある設定になっていて、その辺りも好感です。矛盾のない潔癖な人間っていないから。

C3POR2D2がちょこっと出たり、他にも見覚えのあるキャラクターが登場するのはファンには楽しいのじゃないでしょうか。ただ、これは全く無しでも良かったのじゃないかという気がします。それが分からなくても楽しめるので良いんだけど、もう全くの外伝物として作り上げても良かったとも思う。とはいえep4の前日譚という設定なのでその辺りは逃れられないものでもあると思います。

本作の製作がアナウンスされてから、それってどうなのよ、みたいな気はあったんです。スター・ウォーズのシリーズはその設定を使えば幾らでも面白いものは作れるだろうけど、あんまりそういうことするとシリーズ自体が軽くなってしまわないかなと。でも本作を観てちょっと考え方が変わりました。面白いんだからどんどんやればいいんじゃないでしょうか。もう全く関係ない別の場所での別の登場人物のお話なんかもやればいいと思う。

まあ、でも、本作はダーズベイダーがいかに格好良いかということを示す作品だと思います。それに尽きる。

この世界の片隅に

2016年、日本、片渕須直監督作
太平洋戦争当時、18歳で呉にお嫁に行った主人公の生活を描くアニメーション作品

www.youtube.comとても良い映画だったと思います。小さなエピソードを重ねていくことで時代と場所を描くという丹念な仕事が窺える映画でした。

映画を観終わって一番最初に思い出したのは山田洋次監督の『小さいおうち』でした。

小さいおうち - 8月~12月
『小さいおうち』は実写映画ですが、ある一家とそこに住みこみで働く女中の視点から戦時中の日常を描くことで戦時下の庶民の姿を描いていました。で、『小さいおうち』は山田洋次による小津安二郎リスペクト映画なんですよね。小津映画に出てくるモチーフも登場するし。
小津安二郎の映画というのは家族劇で、普通の人の普通の生活を描いてる。事件ともいえないような出来事が起こってそれにまつわる人たちの生活の機微が丁寧に描かれている。

こういう映画って大事だなと思うんです。映画でも小説でも偉人、天才、英雄といった特別な人を描く。その方が面白いってのは分かる。非日常を観たいという欲求はあるから。でもやっぱり普通の人も描いて欲しいんですよね。普通の人の普通の生活こそがその時代の殆どを支えているわけで、特別な人を時代のイコンとして描くのもいいけど、でも普通の人も描いて欲しい。

普通の人間の日常を描いて面白い映画にする方がたぶん難しいと思うんです。特別な人が特別な時代に特別な事件に巻き込まれれば否が応にも面白くなる。でも日常生活なんて小さなさざなみみたいなものを見せるのは丁寧さというか丹念な仕事というかそういうものが必要になってくると思う。小津安二郎は映画の中にでてくるセットや小物にまで自分の美学を徹底した人で食卓に並ぶ食器、女優が持つ手ぬぐいの柄にまでこだわっていたという。そういう細かい目配りが美しい日常を描き出すのだと思う。

アニメーションというのは描かなければ何も表出しないわけでそれがゆえに大変な労力が必要になる。映画ならそこにある風景を写せば画はできあがるけれど、アニメーションではその風景さえも全て描かなければならない。
しかし逆に言うと画面の隅から隅まで演出を施すことも可能だということになる。実写映画なら風景の一部に映したくないものがあっても映り込んでしまう。黒澤明のように「あの雲をどけろ」なんて言える監督ばかりじゃない。でもアニメーションならそれができる。画面の中に現れる草も虫も風景も人も皆、製作者が描きたいものを描くことができる。それは大変な苦労だけれど、『この世界の片隅に』はそれをやってのけたということだろうと思います。丹念な仕事、丁寧な演出が画面の端から端まで行き届いていてその全てを観客は理解しておらずとも伝わるものがあるということだと思う。

山田洋次監督も本作をお褒めになっておられるということで、やはり何か通じるところがあるのではないかと思うのでした。

 

奇蹟がくれた数式

2016年、英国、マシュー・ブラウン監督

植民地下にあったインドの天才数学者ラマヌジャンが英国で認められまでのお話。

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ラマヌジャンについてはwikipediaをどうぞ

シュリニヴァーサ・ラマヌジャン - Wikipedia

ラマヌジャンの伝記映画ということで期待して観に行きましたが、ちょっと凡庸な感じでした。独学で勉強した数学の能力をもつインド人を英国の権威ある人物が発見し、英国に渡ってからも不当な差別を受け、苦労しながらも成果を発表するという物語で、ちょっと映画としての起伏に欠けるんですよね。

ラマヌジャンが如何に直感的で天才肌かというものを表現するのに、権威ある人物が驚く、認めていなかった人物さえ感服する、という感じなんですけど、それだけではちょっと凄さが伝わらない。
思うに映画やドラマといった映像表現というのは目に見えない技術というものの凄さを表現するのにはとことん向いていないのだなということを改めて感じます。
学問的優秀さや工業的技術の素晴らしさみたいなものをどうしても表現できない。
よくある凄腕ハッカーみたいなものの描写も、もの凄い速度でキーボードを打つ、ディスプレイに溢れる文字列、眼鏡にディスプレイが反射してキラリ、エンターキーを押すとそれによってあらゆる電子機器がダウン、みたいな感じでしょう。

で、表現出来ないからどうするかというと、そういう偉人を描くのに人間ドラマに置き換える。恵まれない生い立ち、認められない理不尽、仲間との葛藤、苦労の末に掴んだ成功、そういった苦難の半生を描く。でもそれは人間ドラマであって、その偉人の成果を表現していることじゃない。
ちょっと前に知人と話していて、ヒットしてる映画やドラマというのは全部その中身は人情話で大衆演劇のような勧善懲悪、水戸黄門、悲恋、そんなものばかりではないか、という話をしていました。本作にも当て嵌まると思う。

映画は視覚と聴覚によって短時間で物事を体験させる方法だから無理を言っても仕方ないし、一本の映画の中に描かれていないものがあるなんて言ってもこれまた仕方ない。
しかし、学問や工業技術の素晴らしさそのものを表現する方法が編み出されたらそれは凄い映画的発明なのかも知れないなあ、と考えたのでした。

七人の侍

1954年、日本、黒澤明監督

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『午前十時の映画祭』( 午前十時の映画祭7 デジタルで甦る永遠の名作 )で上映中だったので観てきました。朝の十時からこんな大作映画って朝ご飯にステーキみたいでヘビー過ぎないだろうかと思ってましたが、映画が始まるとやっぱり引き込まれますね。何度も見ているけど今回気付いたことを。

台詞が凄く聞きとり難い。こんなだったっけ、という感じ。日本語字幕入れてもいいんじゃないだろうか。

最年少の武士、勝四郎(木村功)が子供だと言われる場面が何度もあって、今まではそう思わなかったのだけど、今回見ると木の枝をもいで持ち歩いたり草に寝転んだりする場面を見て「あーやっぱり子供だなあ」と思ってしまった。

村の入り口で三人の武士が森の向こうを見つめながら同時に刀を抜くという場面が強く印象に残っていて、予告編にもあるんだけど、それがどこだったか分からなかった。バージョン違いなのか、あったけど見落していたのか。

菊千代(三船敏郎)が死んで横たわっている場面で、泥にまみれた太腿に雨粒が落ちてまだらになっている場面が非常に印象に残った。無残さ無念さ、残酷さが伝わる場面でした。

全体的に風、雨、泥と清潔で心地よい空間が殆ど出て来ない。登場人物の着物も皆くたびれていて美しいという感覚とはほど遠い。戦乱の時代の農民、浪人、野武士のお話なので当然といえば当然なのだけれど、それが良いんです。
少し前に『闇金ウシジマ君』の映画を観たんだけど、清潔過ぎるんですよね。もっと現代の汚い部分を描く映画じゃないの?と思って。唯一、黒沢あすかの出演シーンが薄汚くてリアルに感じられた以外は、これじゃ原作の魅力がでてないとしか思えなかった。
今時のテレビドラマなんかもそうでしょう?煙草を吸うシーンも描けないなんてそんなのリアルじゃない。小奇麗で清潔で快適な空間や場面しか描けないなんて現実的じゃないし、現代を描けてない。
汚いもの、醜いものは現実にあるのに、それを覆い隠して居心地の良い快適な場所や物事しか描けないなんて片手落ちでしょう。子供番組ならわざわざ子供に見せるべきでないものはあると思うけれど、大人の見る映画やドラマでそんなのってどうなのよ。そういうものが映るだけで不快感をもよおしたり見なくなったりするんだろうか。
汚いもの、醜いものは一切見たくない、快適で心地良い美しい可愛いものしか見たくないなんて幼稚化してるんじゃないだろうか。

年配のお客さんが多かったけど、若い人も結構いて人気のほどが窺えました。映画館で見るとやはり大迫力で色々発見もあるなと再確認したのでした。

 

 

マッドマックス サンダードーム

1985年、オーストラリア、ジョージ・ミラージョージ・オギルヴィー監督作

荒野を彷徨うマックスが辿り着いた場所は砂漠に生れた町バータータウン。そこでサンダードームと言われる檻の中での死闘に巻き込まれる。
言わずと知れたマッド・マックスシリーズ第三作。

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昔、観た時はピンとこなかったんです。偉大な前作『2』が素晴らし過ぎたので。
『FURY ROAD』を観た後に『MAD MAX2』は何回も観直したんですけど、『サンダードーム』も観直さないとなーと思いつつ放置してました。

で、観てみると『FURY ROAD』はやはり本作がなければ生れなかったのだなということを感じます。共通するモチーフが沢山あるのですよ。
冒頭から登場するバータータウンはイモータン・ジョーの砦そのものだし、女首領はイモータン・ジョー。彼女の手下の太った男は、人食い男爵と容貌が似ているし、砂漠の中の子供たちだけの村にいる白塗りの子供はウォーボーイズを思わせる。子供たちがどこかにある良い場所を求めているのは鉄馬の女たちだし、砂嵐のビジョンはそのまま『FURY ROAD』でも描かれています。『2』があって『サンダードーム』があって、それをmixして進化させたものが『FURY ROAD』だというのを強く感じます。

ただお話が少し盛り沢山なのでちょっと焦点がぼやける感じはあります。他にも、サンダードームでの死を賭けた戦いで敗者に情を示すとか、子供たちの為に戦うとか、悪役も今ひとつ悪に徹していなくて少し良い人感を醸し出したりして、全体的に殺伐さに欠けるんですよね。『2』の徹底的な無慈悲さ、ハードコアな感じが好きだっただけに、その点が当時も今も「大傑作」と云えないところでしょうか。

ただやはり、本作がなければ『FURY ROAD』は生まれなかったわけで、『怒りのデスロード』へ至る道への道標として大切な作品だと思います。

蛇足ですが、女首領の元にMAXが引き出された場面では盲目の男がBGMとしてサックスを奏でているんです。このシーン、ロシアの2013年のアレクセイ・ゲルマン監督『神々のたそがれ』を彷彿とさせます。『神々のたそがれ』は核戦争後の世界ではなく文明の発達していない異星でのお話でしたが、サックスを吹くシーンがあって、退廃的な文明の場所でモダンなサックスという楽器の音色が響くところはイメージが似てる気がします。でもゲルマン監督は本作は観てないかな。

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