ヴェノム

2018年、米国、ルーベン・フライシャー監督

なんか彗星で捕獲した地球外生命が体に入ってくると最強になるらしいんです。

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悪い経営者がいて、そいつはどうも自社の薬(?)の開発で人体実験をしてるらしいので、新聞記者のトム・ハーディーが「あかんことやってはるんちゃいますか?」て訊きにいったら、その人を怒らせてしもうたみたいで、トムは仕事も恋人も失うんやけど、今度はそのあかん人が地球外生命を手に入れて、それで人体実験を始めて、そこに携わる女科学者が「もうこんな仕事嫌やねん世間に公表してーな」ってハーディーに言うてきたので「よっしゃ」って研究所に潜入するんやけど、なんやかんやでその宇宙人に寄生されて、最強のトム・ハーディーが、もう一人の宇宙人と合体した悪経営者をやっつける、みたいな話やった。

あんま面白いと思えへんかった。マーベル映画って殆ど観いひんのやけど、もうシリーズものみたいになってるのは乗り遅れたら「1とか2を観てなかったら3観てもなんのこっちゃなんでしょ?」という気持ちがあるからやの。なんか仰山のいいもんが一緒になって戦うやつとかあるやん?誰と戦ってるんか知らんけど、あれとかも誰が誰か全然分かれへんし、そやから観ようという気が全く起こらへんのです。
でもこの『ヴェノム』はここからスタートやし、なんか評判良いらしいし、それにトム・ハーディーやから観に行ってみてんけどあかんかった。
やっぱあれかな。ヴェノムってスパイダーマンにでてくる悪役らしいねんけど、そこらへんの基礎知識がなかったら面白ないんかな。でもそんな予習が必要な映画ってどうなん?1観とかへんかったら2観ても分からへんっていうパターンと同んなじやん、それやったら。そういうの映画としては不親切ちゃうかな。

いやでもね、アクションシーン豊富やし、そこここにギャグがあって軽いノリのヒーローものとしては面白いはずやと思うんです。研究所に忍び込んだり、そこでの顛末とかも堅いこと言わずに「漫画やん」と思とけばそこそこ楽しいと思うから。まあ全然面白なかったいうわけでもないし。でもなんか乗られへんかった。淡々と観てる感じやった。

夜のサンフランシスコの町をトム・ハーディーが独りで歩いたりバイクに乗ったりする場面が綺麗で、そこは良かったかなあ。あんな風に夜の街を歩いてみたいと思たりもするけど、お金ないからなあ。あかんと思う。楽しまれへんと思う。

図書室/岸政彦 著

大阪で暮らす50代になる独り身の女性が、小学生時代に図書室で出会った少年との思い出を回想する物語。 

新潮 2018年 12 月号

新潮 2018年 12 月号

 


ミシマ社の『K氏の大阪弁ブンガク論』という本には、町田康の小説の中で語られる大阪弁に賛辞を送る意味で、以下のような文がある。

「登場人物に語らす大阪弁は、阪大の金水教授が明らかにした『役割語』を逆立ち、いや脱臼させたもんや。並大抵の技芸やない」とベタほめだ。
役割語」とは「特定のキャラクターと結びついた、特徴ある言葉遣いのこと」で、金水先生はここ数年の大阪弁役割語には、「冗談好きでおしゃべり好き、ケチ・拝金主義者、食いしん坊、派手好き、好色・下品、ど根性、やくざ・暴力団……といったステレオタイプがある」ということを明らかにしてる。

うん。メディアで面白おかしく取り上げられる大阪のイメージとはそういうものだろう。テレビしか見ていない人には、大阪ってそんなところ、と思われてしまうのだろう。そういう先入観で他県の人に話しかけられたこともないではない。
しかし、当たり前過ぎて言う必要もないことだけれど、そんなテンプレート意外の人も大阪には住んでいる。当たり前だけど。
しかし、漫才コンビ、ナイツの塙さんが『関東芸人はなぜM-1で勝てないのか?』というインタビューで以下のように答えているのもやはり間違いではないのだろう。

サッカーでいえば、大阪はブラジルなんです。ブラジル人が物心ついたときからサッカーボールを蹴ってるのと同じように、大阪人も物心ついたときから漫才の練習をしている。大阪人の日常会話が漫才の起源のようなもんですからね。小学生の会話なんて、そのまんま漫才のネタになりますよ。

 しかし、それでもやはり、大阪にはそんなテンプレートの通りではない人間が住んで暮らしている。面白くない、冗談なんか言わない生真面目だけの人もいるし、地味な人もいるし、やくざ以外の人も沢山暮らしている。当たり前です。
東京ローカル放送を全国に垂れ流すテレビは、現代という時代を記録する、とか、日本の地方の本当の姿を紹介する、といった使命を全く放棄しているので、一種のファンタジーである「面白おかしいテンプレート」によって地方を紹介する。結果的に先の役割語のようなイメージを大阪人に押しつける。
でも関西のテレビ局までもがそのテンプレにわざわざはまりにいっているのも事実。今日のちちんぷいぷいを見てたらヤマヒロさんがお好み焼きを焼いていた。またお好み焼きか。もうそういうのいいんじゃないでしょうか。

本作は、独り身の中年の女性の寂しさや空しさ、少女時代の不安や少年とのちょっとした連帯感、淀川の堤防に上がった時に吹く風の冷たさ、などなど、この小説を読むことでしか味わえない風味がそこにある。そこには「もうかりまっか」や「負けたらあかん」というような定型の言葉で語られる大阪とは違う、別の大阪の人間が描かれている。
そのような定型とは違う大阪人を語る作家として津村記久子さんを信頼しているのだけれど、もう一人、岸政彦という人がいて良かった。そんな小説です。

でも、子供の会話は漫才みたい、って面はちゃんと描かれてまっせ。

グリーン・インフェルノ

2013年、米国、イーライ・ロス監督

環境保護活動をする若者たちはアマゾンの原住民が森林伐採によりその地を追われようとしているのを阻止するために現地で抗議活動を行う。しかし、帰途、飛行機が墜落してアマゾンの森林に放り出される。そこには彼らが守ろうとしていた原住民がいたが、彼らは食人族だった。

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デス・ウィッシュ』を観て、監督のイーライ・ロスに興味を持って観てみたのだけれど、非道い。非道過ぎる。原住民が若者たちを食う場面がこれでもかというくらい非道い。滅茶苦茶怖いし滅茶苦茶グロテスクで最高に気分が悪い。もうイーライ・ロスのことがちょっと嫌い。それくらい怖い。

教訓的なことは何も感じなくてもよい映画だと思うけれど、環境保護活動をする若者たちのリーダーは、自分たちの活動で世間の耳目を集めることが目的のような奴で、そこんところはネットを通じて有名になることだけが目的でいらんことをしたりして悪目立ちする奴がいることを風刺してるんかな。

でもそういうの関係ない。ホントに胸が悪くなるくらい怖い映画。でも超怖いという意味で傑作。

デス・ウィッシュ

2018年、米国、イーライ・ロス監督作

妻と娘を暴漢に襲われた外科医は、不慣れな拳銃を片手に復讐を始める。
1974年にチャールズ・ブロンソン主演で公開された『狼よさらば』(原題:DEATH WISH)のリメイク作品。

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リメイク元の『狼よさらば』も観てみました。youtubeにあったから。

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狼よさらば』では、妻と娘を町のチンピラに襲われ、妻は亡くなり娘は精神を病んでしまいます。そして主人公は土木技術者ではあるものの朝鮮戦争に従軍した経験があり、父親がハンターであったことから銃の扱いには慣れている、というか凄腕という設定です。
そして仕事相手から銃をプレゼントされたことから、町のチンピラや盗人を撃ち殺していくことにのめりこんでいきます。

対してブルース・ウィリス主演の『デス・ウィッシュ』では、妻と娘を暴漢に襲われ、妻は亡くなるけれど娘は快方に向かう。そして主人公は外科医で銃の扱いには不慣れ。そして妻と娘を襲った真犯人を探し出し次々に殺していくことになります。

狼よさらば』と『デス・ウィッシュ』の違いは、旧版では町の犯罪者を成敗していく主人公が描かれるのに対し、新しい『デス・ウィッシュ』では、そのような犯罪者を成敗する場面もあるのですが、主軸は家族を襲った真犯人に復讐するという筋立てが違っています。
しかし、町山智弘の解説によると

www.youtube.com狼よさらば』は続編があるらしく、次作では家族を襲った犯人を追い詰めるという物語であるようで、『デス・ウィッシュ』は『狼よさらば』の1と2をミックスしたような物語になっているのかとも思います。
ただ、この辺りの改変は、今のアメリカでどのような物語が受け入れられるかということでもあるような気がします。無法に走る男の物語と、無法ではあるものの家族の為に行動する主人公というところや、娘が快方するという救いのない話にしなかったところなど、あまりに無慈悲な話は娯楽作としてはやり過ぎで観客に受け入れられない、というところではないかと思います。

リメイク元も本作も、法を超えて悪を成敗するという物語で、こういう映画は自警団ものというそうです。ロバート・デニーロの『タクシー・ドライバー』などもこのジャンルに含まれるそうで、悪党をこらしめるのに警察や法の裁きでは生ぬるい、遅すぎるという感覚は誰にでもあると思うので、フィクションとしては魅力があると思います。藤田まことの『必殺仕事人』なども同じ類型だと思います。

映画の中では、この自警団のような法を超えて悪を始末する行為に対する賛否の声が描かれていて、まことに真っ当だと思います。自分の思う正義を誰も彼もが押し通していては世の中は無茶苦茶になる。だってたいがいの揉め事は双方共自分が正しいと思っているから衝突するものだし。
映画の中にこのような場面が描かれたのは、フィクションの中で描くのはよいが現実にこのような行為は許されるものではないという警笛の意味もあると思います。

自警団ものの魅力は、警察や裁判のような法にのっとった裁きでは生ぬるい、遅すぎるという庶民の鬱屈が晴らされるというところが物語として爽快感で面白いのだと思うのだけれど、現実でもそれを肯定する人たちがいるような気がします。

アメリカのトランプ大統領誕生には「アメリカを再び強い国にするためには綺麗ごとを言っていないで本音で早急に行動すべき」といった気持ちを持っている人たちの支持があったように思います。これは自警団ものの、法に任せていても遅すぎる、という不満を晴らすのに似た構造にあるような気がします。

そして日本でもこのような気分は見受けられ、2015年の安保関連法案の審議過程では与党が招致した憲法学者が「法案は違憲である」と見解を述べたものの法案は可決されました。

www.youtube.comこの件で法案の支持者たちからは「だったら憲法九条を守っていれば北朝鮮や中国が攻めてきても大人しくしていなければいけないのか?」といった意見がネット上で散見されました。そこには、法を守っていても身が守れないなら法を超えてでも自衛すべき、といった自警団ものと同じ思想が流れているように思います。

フィクションとして楽しむものに罪はないと思うけれど、それと同じ構造の考え方が現実の世界で行われていて、そのことの危うさに気付いていない人が結構いるというのはとても恐ろしいことだと思います。

とはいえ、本作『デス・ウィッシュ』はそんなことを考えずとも復讐譚としての爽快さを楽しめばよいと思います。そして、拷問された犯人が「医者を呼んでくれ」と言うのに対してブルース・ウィリス演じる外科医は「俺が医者だ」と言う場面や、麻薬売買のギャングの元を訪れた主人公が「何の用だ?」と言われ「最後の客だ」と言った直後に銃をぶっ放す場面など、随所にちりばめられたギャグが楽しいです。でも最高のギャグはブルース・ウィリスが銃に不慣れってところだと思いますね。

学校で教えてくれない音楽/大友良英 著

学校の音楽の授業では習うことのない音楽、そして音楽の楽しみとは何かについて 

学校で教えてくれない音楽 (岩波新書)
 

 

大友良英さんは子供やプロではない人たちとの合奏という形式の音楽会をやっておられて、本書は、そのようなイベントでの様子や対談が記録された本です。こんな感じ。

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大友良英というとNHKの朝ドラで能年玲奈が主演していた「あまちゃん」の音楽を担当していたことが有名ではないでしょうか。自分としては、フリージャズを出自とした人で、即興音楽やノイズの領域で活躍している方という認識です。KBS京都で金曜深夜に放送されているラジオもよく聴いています。

そんな大友さんが音楽をどう捉えているのかが垣間見える内容でした。例えば

世界には、それこそ言葉の数ほどの色んな音楽があって、「ドレミファ」というのは、そのなかの一つでしかない。もちろん非常に強力な、もっとも普及した音階ではあるけれど、例えていうなら英語が世界中で話されているってのと同じように「ドレミファ」が普及しているだけで、世の中には、日本語もベトナム語もあるように、いろんな音楽が存在します。まずは、そのことを頭のどこかで意識しながら、話をすすめましょう

という風に西洋式の音楽の語法が普及してはいるけれど音楽というのはそれだけではないと仰っています。また

音楽好きというのは、自分のアイデンティティと自分が聴く音楽とを重ねて考えているっていうことです。僕らが十代の頃は、それをある「ジャンルの音楽を聴く」ということで示せたんだと思います。

とも語っています。

珠に、ある音楽を好んでいるが故に、その他の音楽のジャンルを「くだらない」と一蹴する人がいます。十代、二十代の頃にはそのような年上の人とよく遭遇しました。曰く「ロックなんか聴かないでフォークを聴け」とか「ジャズを聴け」とか。そういう年上の人にはなりたくないと思っていて、反発があったせいでジャズを聴かずに過ごしてしまったことを少し後悔しているのですが、大友良英さんのような開けた考え方の人が身近にいたらジャズが好きになれただろうにと思います。そして未だに「ノイズなんてどこがいいのか」みたいなことも言われなくて済んでいると思います。

学校で習う、正確に歌い演奏することを目指す音楽とは違い、音を発するだけで楽しいこと、そしてそれを他人と共有しながら合奏することで喜びがあることを確認することで、音楽で得られる楽しみの本質は何か、みたいなことを考えさせられました。