誰が「橋下徹」をつくったか/松本創 著

一介の弁護士から大阪府知事大阪市長を歴任し、今もその発言が話題になる橋下徹という政治家のメディアとの関係を描くノンフィクション。

誰が「橋下徹」をつくったか ―大阪都構想とメディアの迷走

誰が「橋下徹」をつくったか ―大阪都構想とメディアの迷走

 

 

文章を紡ぐ前に立ち位置を明らかにしておいた方が良いのだろうと思うのでそうする。おおさか維新という政党は、カスだと思っている。既得権益者を排除して府政、市政を改革すると謳ってはいるが、彼等は新たな権益者に成りたがっている人達にしか見えない。それは小銭を誤魔化して不祥事議員に成り果てる彼等のリストが累々と連なっていることからも自明だろう。

本書は、橋下徹大阪府知事に当選した頃から、大阪都構想住民投票の結果までの時期における橋下徹とメディアの関係を辿った内容となっている。結論から言ってしまうと書名の「誰が橋本徹をつくったか?」に対する答えは在阪メディア、特にテレビだということだ。

既にテレビで顔と名前を知られた人物が、若き改革者として登場することでメディアはそれを取り上げた。確かにこの時期の橋下には意味があったと思う。何かしらの大きな改革を成し遂げるにはスクラップ&ビルドは必要で、彼は破壊者としては大いに適任だった。
そしてメディアは橋下の言動を取り上げることで視聴者の耳目を惹きつけることができるという安易な方法に定型化し、彼もそれに応えて時に過激な言動で衆目を飽きさせなかった。それは誰かと喧嘩してみせるという炎上芸人の手法でしかないのだけれど。
そして、その喧嘩の相手はやがてメディアになる。橋下とおおさか維新に対して批判的な発言をする人物とそれを取り上げるメディアを攻撃することになる。橋下という人物は口喧嘩では負けない人なので、テレビ関係者も記者も結局やり込められてしまう。揉め事っていうのは傍から見てる分には面白いものだから。でも橋下の台詞には嘘と誤魔化しと詭弁しか込められていない。

つい先日も知人と話をしていると
「でも橋下さんは大阪府の財政を黒字にしたんだから政治手腕はあるはず」と言っている人がいた。

少し引用すると

大阪府の実質収支は、故・横山ノック知事時代の2000年度に約4000億円の赤字となったのを契機に、徐々に改善されつつあった。橋下が就任する前年の太田房江知事時代には赤字額は12億円まで圧縮され、黒字に転じるのは時間の問題だった。

とある。また、橋下が自分の功績だと主張する黒字化も

08年の選挙前には地方債の償還を一部先送りして、浮いた金を一般会計に繰り入れるという赤字隠しが発覚。

中略

「11年ぶりの黒字」を正式に発表した後の09年10月、減債基金とは別の基金からの借入が明らかになった。

中略

さらに、翌10年2月の外部監査では不適切な会計監査が指摘される。

中略

つまり、大阪府の黒字転換は、違法とは言えないまでも、さまざまな辻褄合わせで成り立ってきた、いわば“見せかけ”の数字だという指摘である。

 

となっている。橋下の言葉はテレビによって大々的に伝えられるが、彼の嘘を検証した結果はその人達に届かない。都構想を説明する為に維新議員たちが使ったパネルには嘘と欺瞞が充ちていたが、知ってる人は知っているが知らない人は全く知らない。

結局、彼がこれだけ取り上げられたのは正であれ邪であれ目立つ人物だったということなのだろう。テレビは人物を取り上げることしかできないから。
何事かの大きなものを動かそうとするならば、組織が必要で、その組織の頂点には責任者の名前が上がるだろうが、実際は群像がそこで働いている。テレビはその群像を描くことができない。だから人物にスポットを当てる。群像劇を描けないので英雄のお話にしてしまう。その方が分かり易いから。その安易さが橋下徹という男を増長させてしまったのだと思う。

橋下とその仲間たちは、スクラップは担えてもビルドの方には期待できない。閉塞した状況で「とにかくぶち壊せ」という気持ちは分かる。映画や小説を読んで俺もそんな気持ちになることはある。
しかしどんな社会の物事も積み重なった歴史の上に成り立っている。改善と改良が繰り返された結果今の社会はできている。一回帳消しにしてやり直して前より良いものが出来る保障はない。ましてや小銭をちょろまかすのに四苦八苦している奴らには到底任せることなんてできない。

そんなことを思ったのだけれど、ふとこれを思い出した

 

「維新がやろうとしていることは良からぬことだ」というのは呪いだろうか。そうは思わない。でもこのツイートにぶら下がっている賛同を示す人たちには幾らかその気分はあるだろう。

例えば、楽しみにているイベントを明日にひかえた人に
「明日は雨になりうそうですね」と事実を伝える人よりも
「きっと晴れますよ」と気休めを言う人の方が清く明るく朗らかに見える。確かにそう見える。

社交辞令ならそれで良いが、政治はそんなわけにはいかない。虚と詭弁で塗り固められた言葉でも良いから明るい未来を提示した方が票を獲得するのだろうか。それでいいわけはない。

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お嬢さん

2016年、韓国、パク・チャヌク監督作品

日本統治下の朝鮮で莫大な遺産を相続している令嬢と叔父、その遺産を狙う詐欺師と、その一味として女中に成りすまし潜り込んだ女、彼等が入り乱れるフェティッシュな世界観の物語。

www.youtube.comパク・チャヌク監督の作品は『復讐者に憐れみを』、『オールド・ボーイ』、『親切なクムジャさん』の復讐三部作が死ぬほど好きなのですが、それ以降の作品は未見なのです。だってレンタル屋にもあまりないし、どこの映画館でもやってるわけじゃないので見逃すとなかなか観られないから。
なので今回は見逃すまいと劇場に出掛けたのですが、感想はというと、そんなに面白いと思わなかった。結末もなんだか予想できたし。でも二転三転する展開を描く構成には感心したし、主演のキム・ミニの美しさも堪能した。

一番思ったのは「パク監督の最近作はこんな感じに進化したんだなあ」ということ。
復讐三部作は作品が進むにつれてパク・チャヌク作品のフォーマットが整っていくのを感じていて、それは映画の質感が漫画的というかお芝居的というか、リアルな世界じゃなくなってきてる。リアルさを追求するよりも寓話的というか幻想的というかそういう描きたい世界を描くことに注力しているように思える。その進化は本作『お嬢さん』でもより進んでいるように思えて、令嬢の住む館はファンタジーかと思えるような豪壮で奇妙な作りだし、演者たちも本当にいそうな人物と言うよりは、漫画のキャラクターのように見える。どれも現実ではなく非現実感の方が大きい。
パク・チャヌク作品では『復讐者に憐れみを』で見られた現代韓国の汚い部分を描いていたのがとてもリアルで好きだっただけに惜しいような気がするのです。でも残酷描写だけは一貫してエグいです。そこは変わらない。

もひとつ言っとくと主演のキム・ミニは松嶋菜々子にちょっと似てるかなあって思いました。

LA LA LAND

2017年、米国、デミアン・チャゼル監督作
女優の卵とジャズクラブを持つことを夢見る売れないピアニストの男、二人は出会い励ましあい、それぞれの夢に向かって突き進む、ミュージカル作品。

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冒頭、渋滞のハイウェイからドライバーたちが飛び出してきて歌い踊るシーンでもう楽しい。ハイウェイの向こうの方、渋滞の最前列の人まで踊ってる。凄い。CGかも知れないけど、これだけでもうテンションが上がる。最高。
その踊る群衆の中で、黄色いワンピースの女が両手を広げて背中を見せる場面があるんだけど、その背中が良いんですよね。肩甲骨が浮き出たような痩せた背中じゃない。肉体的に充実した背中。健全な筋肉とか見せられたら高揚するじゃないですか。シュワルツネガーの映画なんてそのテーマの9割方は筋肉なんだから。後の一割が未来からの殺人ロボットだったり異星人だったりするだけでしょ。

もうエマ・ストーンが可愛くて仕方ない。知らない女優さんだったので、映画の最初に見た時は目と黒目が大きい人だなあ、くらいの感想だったのが、どんどん可愛くなる。エマ・ストーン頑張れ!って気持ちになる。愛らしくて堪らない。そして最後には貫禄のある姿まで見せるという凄さ。

対する男優であるライアン・ゴズリングはなんだかぼーっとした男という印象なんだけど、これは意味があるんじゃないでしょうか。

映画の鑑賞前に、ツイッターで「『LA LA LAND』は『Streets Of Fire』」みたいなつぶやきを見掛けて

 (たぶんこの方)


「へー、そうなん?でもどこにそんな要素あんの?」って思ってた。映画を観た後は本当にそう思う。この映画は『ストリート・オブ・ファイアー』なんです。

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『ストリート・オブ・ファイアー』は1984年作の米国、ウォルター・ヒル監督作。
女性歌手が故郷である街に凱旋公演にやって来たが、隣町の暴走族にさらわれてしまう。そこで彼女の昔の恋人だった男を呼び寄せて彼女の奪還を依頼するというお話です。
ダイアン・レイン演じるロックンロールの歌姫を助け出すのは、かつては札付きのワルだった元恋人マイケル・パレ。超絶的に単純なストーリーで一切の装飾がなく、またライ・クーダーの音楽が随所に埋め込まれてミュージカル映画の要素さえある。物語は男が才能のある女を助け出し、そして彼女の邪魔にならないようにそっと去って行くという結末なのですが、それが『LA LA LAND』と酷似している。

ライアン・ゴズリングエマ・ストーンを励まして独り芝居を勧めて応援する。そして大きな役のオーディションがあることを報せ、彼女をその気にさせるのもゴズリング。これは才能のある女を助け出すという『ストリート・オブ・ファイアー』のマイケル・パレの役割と一緒。そして静かに離れていくところも同じ。
マイケル・パレもあの映画では悪行に関して頭がきれるだけで、自分で「俺は君に見合う男じゃない」的なことを言って去って行くちょっとした駄目人間だった。そこら辺はマイケル・パレの素が醸し出してたのかも知れないけれど、『LA LA LAND』でのライアン・ゴズリングがあまりキリッとした表情を見せないで切れ者じゃない風を装っているのも同じじゃないだろか。ボンクラ男が才能のある女を助けて静かに去って行く。そこにあるボンクラの美学が素晴らしい映画だと思います。

『ストリート・オブ・ファイア』では彼と彼女の馴れ初めは軽く描いて、その奪還戦に焦点をあてて描いていて男と女がその後どうなったかは描かれていない。
対して『LA LA LAND』ではエマ・ストーンとゴズリングの出会いから仲が良かった日々、そして再会を描いていて、どうやって分かれたのかは軽くしか描かれていない。パズルのピースの凹と凸のように『ストリート・オブ・ファイア』で描かれなかった部分が『LA LA LAND』では描かれていて、もの凄く綺麗に当て嵌まる。
『LA LA LAND』は『ストリート・オブ・ファイア』を補完する物語だと言ってもいいのではないかと思う。

駄目人間のことでいうと、だって才能ある男と才能ある女の話なんか見たい?ちょっと駄目人間要素がある主人公の方が愛らしいでしょう。そう思うと劇中で赤いジャンパーを着てショルキー(ショルダーキーボード)を抱えているゴズリングのダサさにも納得がいく。実は有能なピアニスト、なんて設定だけじゃ好きになれない。格好悪い面もないと。というか格好悪い部分こそが好きなんだけど。俺たちはみんな映画俳優や女優のように格好良くない存在なんだから、格好悪さを愛さないと。じゃないと自己否定が延々と続くことになるでしょう。格好悪い自分を肯定する意味でも格好悪さを愛すべきだ。ショルキーのダサさは2周半くらい反転して格好良い!

その他、夜の路上でドレスの裾を翻して女4人が踊る場面、夕暮れの駐車場で主人公の二人がタップを踏む場面、プラネタリウムで浮遊する二人等々、最高に幻想的で浮世の辛さを忘れさせてくれる映画でした。
ミュージカル映画なんて登場人物が突然歌って踊るんだからリアリティとは無縁でしょ。ファンタジーで良いはず。最高のファンタジーでした。サントラも買ったから。

アドルフ・ヴェルフリ@兵庫県立美術館

兵庫県立美術館で『アドルフ・ヴェルフリ 二萬五千頁の王国』という展覧会を観てきました。

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アドルフ・ヴェルフリ(1864-1930)はアウトサイダー・アートの方です。アウトサイダー・アートというと精神病院の患者の作品が芸術的に価値を見いだされたところから始まっていて、彼もまた精神病院で作品を創作し続けた人でした。

その作品はとても奇怪で歪んだイメージが横溢していて、執拗で、意味が読み取れず、それでいて静かに激情が渦巻いているような作品でした。こんな感じの絵です。

www.artbrut.ch

アウトサイダー・アートの作品を観ていると思うのは、絵画に意味を読みとるのは無意味なことだよなと思います。絵画の解説として、この作者は当時恋人と別れて失意にありその心象風景が作品に現れた、みたいな「意味」が添えられるけれど、それは大して重要なことじゃないのではないか。作家研究や美術史的な意味はあるけれど、その作品を観るのにその解説は必要ないんじゃないだろうか。ただそのイメージに圧倒されればそれで良いのだと思う。それこそが絵画の機能じゃないかと思う。

絵も情報の伝達手段だけれど、言葉にできないものを伝達しているわけで、そのイメージを受け取ればコミュニケーションは成立しているような気がする。言葉と違って正確な意味は伝達できないけれど溢れ出る作家の激情を感じ取ればそれで良いのではないだろうか。そしてそのイメージが常識に囚われた固い頭からでてきたものではないところにアウトサイダー・アートの魅力があるように思います。

美術館は階段が素敵な建物でした。

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こんな感じとか

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こんな感じ。

悪夢の迷宮っぽい。

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新しいNEWネオ室町/踊る!ディスコ室町

 

新しいNEWネオ室町

新しいNEWネオ室町

 

 踊る!ディスコ室町は京都のファンク・バンド。名前が印象的で気になってたので聴いてみました。
聴いてみて思うのはファンクってテクニカルな音楽だなあということ。ドラムやパーカッションといったリズムを奏でる楽器以外は音階を表現する為にあるけれども、ファンクではそれらが全て、刻んだり、止めたりすることでリズムを奏でる楽器になる。全ての楽器はリズムの為にある、って感じ。即興音楽などを除いて、普通は音楽を構成するのに、アンサンブルが成り立つには全ての楽器のリズムが合っていることが必要だけれど、それをリズム強化の面で推し進めた音楽がファンクなのだと感じる。ノーテクではできないですよね。

でもテクニカルな音楽に背を向けていたのですよね。パンクが好きで、パンクって初期衝動、若気の至り全開の音楽でしょう。それを音楽的に稚拙だなんて批判に対して「あほか」と思ってて、どんどんノーテクニックな方向が好きになった。ガレージパンクが好きになったのもそうだし、ノイズが好きになったのもこれこそノーテクニックの究極だと思ったから。今はパンクにもノイズにも技巧やセンスの巧拙はあるとは思うけど。
少し前にプログレが好きだという人に会って、俺ってホントあーゆー技巧の必要な音楽に背を向けてきて損してたなあと反省したのです。

本作はそんなファンクの気持ち良さが味わえる作品。テクニック云々なんて考えなくても体が動けばいいんですよね。考えるな感じるんだ!って感じ。ライブに行きたい。

www.youtube.com

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