男たちを知らない女/クリスティーナ・スウィーニー=ビアード 著

男だけが罹患する致死率90%のウィルスが蔓延する世界で、残された女たちはどう生きるのか。パンデミックSF

 

原題は『The End of Men』。タイトルの通り男性社会の終焉を描いている。
本書に登場する疫病は、女たちには何の害も与えないが、男たちはウィルスに侵されると数日で死に至ってしまう。10人に1人は免疫のある男も存在するが、男の90%はウィルスから逃れることはできない。そういう世界を幻視したSF小説となっている。

以前、匿名掲示板にフェミニストを名乗る人物が
「悪しき男らしさを排除するために女たちだけの街を作ればいい」と書いていて、それに対する反発の意見が次々と書き込まれていた。
「電気ガス水道といったインフラの整備、建設や製造といった肉体的に過酷な仕事、そういうものには男たちが大勢従事しているのだから女だけの街ではそれらが維持できないぞ」という批判に対し
「そういうものは外部から男たちを連れてきてやらせればいい」と反論していて、それも批判されていた。
しかし批判していた人たちは、ついこの前までこの社会は「家事や育児は女にやらせればいい」という世界だったことを忘れているのではないだろうか。男にやらせればいい、という意見に問題があるなら、女にやらせればいい、という姿勢も問題なはずだが、それを問題にしないのは、問題だ。

この社会に蔓延する「悪しき男らしさ」というものは確実にあって、女も、そして男でさえもそれゆえに苦しんでいる。それを除去しようとすることは現代のフェミニズムの目指すところだと思うが、疫病という残酷な形によってそれが為されるという物語になっている。

とは言え、そのようなこともこの小説には描かれているのだが、白眉はパンデミックの広がりと人口の約半数が失われることによる世界の混乱が様々な視点から描かれていることだろう。著者前書きによると、著者はこの小説を2018年から書き始め2019年に脱稿したと記している。つまりコロナ禍の前なのだ。その時代に、これだけのことを予見していることが驚きだ。解説の菅浩江さんは「現実に追いつかれてしまった疫病SF」と書いていて、その通りだと思う。そして、起こり得ないような事象が起こった時に人間や社会や世界はどうなっていくのか、といったSF小説が持つ未来を予見する役割を果たしていると思う。

確かに、コロナ禍を経験した我々が今これを読んで、現実はこんな感じではなかった、というのは容易いだろうが、そのようなことは問題ではない。現実が始まる前に未来を予見してそれを詳細に書き表したことが偉業なのだから。

こんな話題があった。

太った少年→巨大な少年 『チャーリーとチョコレート工場』から体形・性別・肌の色描写が削除 「検閲」と作家ら危険視 - ねとらぼ

英作家ロアルド・ダールの著作に、“現代でも全ての人が楽しめるよう”変更が加えられました。出版社と著作権を有する会社によるもので、最新版では「太った」「醜い」「狂った」といった多くの言葉が変更されており、作家らはこれに「ばかげた検閲」などと危険性を訴えています。

馬鹿げたことだと思う。
引用した記事は、言葉遣いを現代のポリティカル・コレクトネスに従って書き換えるという愚行だけれど、物語はそれが書かれた時代背景と共に価値があるものだ。
『男たちを知らない女』はコロナ禍の前に書かれていて、疫病の蔓延の中で人々がどう生きるのかを幻視している。その価値は大きい。

なんでも今の基準で判断すればいいというものではない。その時代にこれが書かれた、ということが価値であることは大いにあるのだから、安易に現代の価値基準で書き換えたり判断していいものではない。