人民の敵 外山恒一の半生/藤原賢吾 著

外山恒一(とやま・こういち)1970年鹿児島生。革命家。前科三犯。一度も就職せず、街頭ライブを主な生業としながら「政府転覆」を掲げ、民主主義を否定し、齢は50を過ぎた。どれだけ打ちのめされ、敗れ続けても、決して諦めない革命家の軌跡。

人民の敵: 外山恒一の半生

人民の敵: 外山恒一の半生

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冒頭、新聞社の記者である著者が外山恒一に対面する場面を引用する。

取材場所のバーでビールを飲みながら初対面の私を待っていた男は、くすんだ黒い長袖Tシャツに編み上げブーツを履いていた。顔が赤くなる前に、まず写真を撮らせてほしいという私の申し出に快く応じつつ、こう言葉を重ねた。
ビンラディンのTシャツに着替えましょうか?」
ファシストを名乗るスキンヘッドの男は、冗談とも本気とも計りかねる声色で提案してきた。
「え?あ、いいと思います。いいですね」
出会い頭にいきなりフックを浴びせられた私は、男の気を損ねてはまずいのではないかと焦るように同意する。すると、男はこう続けた。
「いやいや、新聞にビンラディンはダメでしょう」

笑ってしまった。ビンラディンのTシャツなんてどこに売っているのだろうか。
でもこの引用部分で人柄というものが垣間見える。常識人であること、サービス精神があること、笑いを忘れないことが伺える。
そして、この半生記はこんな調子のお笑いで進むのだろうか400頁近くもあるのに、とも思った。

しかし読み進めると、そんな心配は払拭させられる。いや、確かに可笑しくて笑ってしまう場面はある。しかしその可笑しさの裏面で泣きそうになる場面もあるし、考えさせられることも多々ある。色んな感情を味わう半生記だった。それは色んなことを実行してきた男の生き様が描かれているからなのでしょうね。

外山恒一という人を認識したのは、2007年の東京都知事選挙政見放送だったと思う。サブカル的な奇人変人を面白がるような文脈で知ったし、当時はそう思っていた。
しかし連合赤軍東アジア反日武装戦線のような極左、そして鈴木邦男野村秋介のような右翼民族派、そして毛沢東ポルポトのような歴史に大きな汚点を残した共産主義者、そういう事物に興味や関心があり、関連書籍などを読んでいたので、何かしらひっかかるものがあったのだった。今は大阪維新から目が離せない。

浅い外山ファンなので、本書を読むまで知らなかったことも多かった。
高校生の頃の反管理教育というところから始まり高校退学、新党結成やDPクラブという連帯とネットワークの構築、校門圧死事件に対する抗議活動など10代の頃から過激に活動していたことは、ミュージシャンのデビューアルバムに音楽性が凝縮していることを思わせる。
ストリート・ミュージシャン稼業、ブルーハーツ・コンサート粉砕闘争、といったPunksとしての行動を知って、やっぱりPunkスピリットこそがあらゆることに共通して大事なのだということも再確認した。
日本破壊党、九州公安局での抗議、オウム真理教事件時の警察批判、投票率ダウン・キャンペーン、傷害事件と裁判闘争と服役、ファシズム転向、霧島市議選に立候補して政府転覆を主張、東京都知事選立候補と歴史に残る政見放送原発推進議員のほめ殺し運動、立候補していないのに選挙活動をするニセ選挙運動、私塾の開校、等々、あらゆる活動と行動が興味深い。
最近は、反マスクのようなことを言っているようで「それはちょっと」と思っていたが、この本を読み終えると納得するような気持ちにもなった。

読み終わって思うのは、この人はずっと自由というものを希求しているのだなということだった。そして、自由を抑圧し制限する為政者たちに、彼らを支える支持者たちに、そのことに気付いていない大衆に、そして気付いているのに行動しない人民に
「お前たちは間違っている」と言い続けている。終盤「コロナ」の章には具体的にそれが書かれている。
それが分かると若かりし頃の反管理教育運動はそれそのものだし、選挙に関するあれこれの活動も、選挙というシステムのバグや欺瞞、それに気付かない、若しくは気付かないフリをしている国民への警告ととれる。そんな不完全な制度で選ばれた権力者を嘲笑うことにもなっている。
ずっと
「根本的に間違ってないですか?それでいいわけないでしょう?」と言っているのだと思う。
都知事選の政見放送しかり、ニセ選挙活動しかり、投票率0%運動しかり、本当に自由だったらここまでのことができると体を張って示しているんじゃないだろうか。人民に自分たちが飼い慣らされていることを自覚させるために。都知事選の政見放送で放たれた「この国は最悪だ」という言葉は政治家だけでなく、其奴らを選んだ国民にも向けられている。そう思うと反マスク的なものも同調圧力によって人々が唯々諾々とマスクをつけていることへの注意勧告なのだろう。

しかし彼の活動は、面白主義というフィルターを通しているので、人民も権力者も自分たちが批判されていることに気付かない。自分たちの方が真っ当だと信じて疑わない大衆には「なんだかおかしな人だな」と思われていて、何重にも皮肉が込められていることに気付かれないでいる。「人民の敵」というあまりにも分かりやすい立場を表明しているにも関わらず。

会社だとか地域の寄り合いだとかで会議/討議をしている時に
「そもそもおかしくないですか?」などと言えば、うんざりされる。そもそも論などと言われるし、俺たちが積み上げてここまで築き上げてきたものを土台から否定するのかと言われて卓袱台返しなどとも言われたりする。しかし土台が歪んでいたらその上に建つ建物は永久に傾いたままになってしまう。だから組織の成員だったり社会の一員だったら責務として間違っていることには間違っていると言わなければならない筈だ。
でもなかなかそんなことを言う勇気は小心者の小市民にはない。嫌われたり笑われたり村八分にされたりするのが怖くて言い出せない。だからぐっと我慢して、日銭が貰えて日々の生活が営めているのだからそれでよしとして、誤魔化しながら生きている。
そういう誤魔化しをせずに自由であることを体現している男の生き様が描かれている半生記だったと思う。

昨日、鈴木邦男氏の訃報が一水会ツイッターにより知らされた。野村秋介氏はもうすでに随分前に自決している。一水会は今でも信頼できる右翼団体だが親露の姿勢には同調できない。東浩紀氏は良いことを言っていると思うこともしばしばだが、三浦瑠麗や古市憲寿といった愚物と平気で共演していて決定的に人を見る目がない。もう外山恒一しか残っていないのではないか。

 

 

外山氏は本書を「絶対読むなよ」などと言っているが、そんな言葉には徹底的に抵抗し、断固として読むべきである。強くお勧めしておく。