人新世の「資本論」/斉藤幸平 著

マルクスを紐解き資本主義からの脱却を説く本。

資本主義の暴走によって地球温暖化に始まる気候変動は止められなくなっている。それならば資本主義を疑ってみてはどうか、マルクスが提唱していたことをもう一度思い出してみてはどうか、そうやって社会を変革する必要があるのではないか、ということが書かれている。

サッカー選手の本田圭佑さんがこんなツイートをしていた。

こういう考え方には相容れないので批判的なブックマークコメントを書いたが、本田氏のこの発言に、はてなブックマークユーザーの少なくない人たちが賛同しているコメントを寄せていた。

確かに給与が気に入らなければ実力をつけて転職した方が早い。自分もそういう考えで転職したことはあったので、考えも行動も本田氏と同じだと言える。個人が勉強し技能を身につけてこの世の中で少しでもうまく生きていこうとすることは当たり前のことだ。
ただし、社会を同一視するのなら話は違う。会社というのは、結局は株主のものであって私有されているものだけれど、社会というのは誰かの私物ではない。我々一人ひとりが社会を構成している。
社会に不具合があるのなら、それは声を上げて改善していかなければならない。それらの中で為政者による問題は彼らに改善を促さねばならないから司法、立法、行政といった機関に働きかけることになるが、直接的に何かの運動に関わらずとも、地元の議員に陳情するとか、投書して意見を届けたりすれば少しでも有効だし、インターネットで意見を表明するというのも婉曲的ではあるけれど無駄だとは思えない。民意というのはそういうものだから。一番は選挙における投票行動だと思うけれど。
だから
会社が変わるのを待つより自分が変わった方が早い」にある程度は賛同できても
社会が変わるのを待つより自分が変わった方が早い」にはまったく賛同できない。
そして会社に対しても労働者が連帯して団体交渉を行い待遇改善を訴えるのは正当な権利なのだから。

後段で本田氏は「政治家の視点だと内容が全く異なるが。」と述べているが、その政治家を動かすのは我々ではないか。国民に社会を変えようとする意志は必要ないが、政治家には必要ということであれば、社会を変えるのは政治家の意志だけであって国民はそれに追従するだけの存在であればいいというのだろうか。そのような社会は選ばれた人たちだけによる独裁的な強権国家だとしか思えないし賛同できない。だから本田氏は社会を変革する一員としてそこに参画する意志がないのだなと感じた。

 

本書『人新世の「資本論」』は資本主義によって環境破壊に歯止めがかからなければ人類にとって大きな困難に直面するのだから、その資本主義を乗り越えようということが書かれている。それはこの世の中を変えようということだ。随分売れた本らしいので多くの人がそのような考え方に興味を持ちその思想に触れているというのはとても心強い気もするが、前述のような本田圭佑氏の言葉に賛同する人たちが多いのも事実だなと思う。

例えばイランやタイでは、宗教指導者や王政に対する不満を持った国民たちが行動して異議を唱えている。アメリカやヨーロッパでも政治や差別に異議を申し立てる人たちはデモや集会を行って自分たちの意志を明らかにしている。民意を政治家たちに分かる形で示している。
しかし本邦では、政治家の疑わしい行いに疑義を唱えることさえ社会に不満を唱えるネガティブな行動だと言われたりする。デモにも拒否反応があるし、男女平等を謳うことにさえ反発がある。それらが多数の意見だとは言わないが、そういう保守的で改善や改革を否定する人たちの声は多くある。
そんな中で、資本主義を脱却して新しい経済/社会制度に移行しよう、といった大きな変革は、少なくとも日本で世界に先駆けて起こるということはないだろうなと思う。
よく、若者に発言権がなく老人たちがこの社会の変革を押さえつけている、といった言説があって、確かに頭の固い老政治家たちによって変化が起こらないという面はあるだろうが、先に書いた諸外国で起こっているような若者たちによる抵抗や意見表明がこの国で強く行われているとも思えない。少なくない人が地道にやっているのだろうけれど。

個人的には、温暖化が進み、いよいよもう取り返しがつかないという時代になってやっと人類は重い腰を上げるのだろうなと思う。きっと、危機の予感では動かず、危機に直面しても慌てるだけで、危機が過ぎ去ってから誰か責任者を祭り上げる作業に没頭するのだろう。
その時代には、若者たちがこんな世界で生きていかなければならなくなったのは過去に問題を放置した人々のせいである、という言説が広まるだろう。自己利益に邁進し社会変革を諦めた今を生きる人たちは、その批判を受け止めなければならないだろう。