悪魔が憐れむ歌 暗黒映画入門/高橋ヨシキ 著

映画監督としても活躍する高橋ヨシキ氏の映画評論集。

 

映画本は星の数ほどあれど、好きな映画本をひとつ選べと言われればこれになるのです。


『悪趣味洋画劇場』
1994年、洋泉社からの本。そこで取り上げられるのはホラー、スプラッター、カンフー、似非ドキュメントといったZ級映画たち。悪趣味ブームみたいなものも当時あったかな。でもサブカル的に消費される一種の嘲笑をともなった「悪趣味」ではなく、シネフィルたちからは見向きもされないそういう映画たちに底なしの愛を持って語る映画本だった。この本にある、映画『スナッフ』について書かれた中原昌也の文章は永遠の名文だと思ってる。

『悪魔が憐れむ歌』を読むと『悪趣味洋画劇場』が思い出された。雰囲気が似ている気がする。『悪趣味洋画劇場』の執筆者一覧を見ても高橋ヨシキの名前は見当たらないけれど、どこかに関係しているのではないかと思ってしまう。

取り上げられる映画はホラー、残酷ドキュメンタリー、SF、アクションといった、映画をアートだと捉えるシネフィルたちが馬鹿にするような映画ばかり。でもそこには愛がある。文庫版まえがきにはこんな一文がある。

初版の「あとがき」にも書いたように、『悪魔が憐れむ歌』はぼくにとって最初の映画評論集であると同時に、当時のぼくの魂が発した呪詛としての、あるいは異議申し立てとしての側面も強い。取り上げられた作品の多くは周縁的であり、「いかがわしい」。しかしそれは(しばしば誤解されるように)正統的で「メジャー」なものに対するルサンチマンに由来するわけではない。周縁的で「いかがわしい」ものでしか表現し得ないものが存在するというだけのことだ。

そうなのだ。周縁なのだ。
美しく高尚なものを求めるのは良いことだろうが、その反動として醜く低俗なものを憎む必要はない。山の中腹から頂上を目指すことは人間の衝動として当然のことだろうが、頂上に立って麓に蠢く人々に対して自分が高位にあると思うのは間違っている。ただ頂上に立っているということでしかない。高い場所からは色んな物を俯瞰できるだろうが、麓からみた景色に意味がないわけではない。
映画だってアート志向の映画や高名な映画賞を受賞した映画だけに価値があるわけではない。低俗と言われる映画は幾らでもあり、そのようなものを好む人間だっているのだ。高位から見た景色があるように低位から見た景色もある。中心から見えるものは多々あるだろうが周縁から見た景色を彼らは見ることができない。

東京から発信される情報が日本中に流布されているが地方に住む人間から見るとそれは中央から見たものしか語っていない。だから批判するのだ。お前たちは何も分かっていないと。お前たちは中心からの視点しか持っていない自覚があるのかと。

映画にだってそういうことはある。