ヤング≒アダルト

2011年、米国、ジェイソン・ライトマン監督作

都会でヤング・アダルト小説の作家として働く女の元へ1通のEメールが届く。それは高校時代の元彼からのもので、子供が生まれたお披露目パーティーを行うという招待のメールだった。人気シリーズ小説の最終回の原稿を催促されるなか、彼女は元彼とヨリを戻すために生まれ育った町へ帰る。

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ジェイソン・ライトマン監督&ディアブロ・コーディ脚本&シャーリーズ・セロン主演のトリオというのは、先日観た『タリーと私の時間』と同じだった。時系列としては『ヤング≒アダルト』の方が先に作られていて、7年後に『タリーと私の時間』でこの3者が再結集したことになる。そう思うと味わいが似ている感じはあるし、この映画を経て、より洗練されたのが『タリーと私の時間』ということになるだろう。

ヤング・アダルトというのは、若者向けの小説を指すジャンル名。日本で言えばライトノベルみたいな位置付けになる。世間的には、文学と呼ばれるような小説からすれば少し軽い内容という印象だけれど、以前『コードネーム・ヴェリティ』という海外ミステリーを読んで、これが米国ではヤング・アダルト小説として書かれたことを知り大層感心した憶えがある。明るく楽しいという小説でなく滋味深い内容で、日本でもその年のミステリーベスト10にランクインしていたはず。

ただ、この主人公は作家といいつつ、原案は別に居て小説化の作業だけを担っている。表紙の裏とはいえ本に名前が記載されているのだからゴーストライターという呼び名は適当でない気がするが、アメリカではそういう立場の人をゴーストライターと呼ぶのかも知れない。

痛い人を描いた映画で、主人公が痛い。高校時代は女王様のような人気者でモテモテ、現在も退屈な地元を飛び出し、華やかな都会で作家稼業、と素直に考えれば憧れの存在だけれど、実際の仕事はゴーストライター、離婚も経験し、飼い犬だけが同居人という淋しく荒れた生活を送っている。なのにかつての女王様キャラが抜けきらずにいて、鼻につく、タカビーという理由で同級生たちには嫌われている。そんな主人公をシャーリーズ・セロンが演じている。いつまでも若い頃の栄光に囚われていてる。そんな主人公。

元彼から子供の誕生パーティーに招待され「昔の彼女にこんなもの送って来る?」と憤慨してから、ヨリを戻そうとするまでの展開が突飛なような気もするが、今の自分に会えば彼はきっとなびくに違いないという高慢さがそうさせたと思えば納得もできる。でも、彼もそれを望んでいるはずだと思い込んでいて、その考え方も行動も痛い。相手にその気が全くないのに猪突猛進して玉砕する姿が痛い。
主人公は元彼と電話で連絡をとり、待ち合わせの店に行く。大きく胸の開いたセクシーで派手なドレスを着て出掛けるが、店に辿り着くとそこはファミレスみたいなところで場違い感が半端じゃない。そういう痛さが随所にあってクスクスと笑いながら観てられる。

でも<痛い>と表現すれば嫌な印象で共感できない人物になりそうだけれど<痛々しい>と表せば少し同情せざるを得ない愛らしいさが滲み出る。この主人公はどちらかと言えば痛々しい。
要は、世間一般、仲間内、同世代の感覚からずれてるということで、中間層から下にずれていれば馬鹿にされるけれど、本人としては上にずれているから皆は自分を快く思っていないと勘違いしている。でも本当は下にずれている。周りの人間はみんなそう思っている。まったくもって痛々しい。

終盤は、この辺りを宣告されることでやっと気付くという展開だけれど、かつての栄光にすがるのは止める、でもずれてる部分についてはそのまま行く、と決心しているかのようで清々しさがある。何もかも自分が信じてたものをそっくりひっくり返すということを外から求められてもそれに従わなくて良いから。

若い頃の記憶に囚われている人って結構いる。爺さんで、なぜそんなに尊大な態度なのか?と思っていたら「俺はかつては○○社の部長だったんだぞ」みたいなことを言い出したり。知らんがな。サラリーマン時代は下請けに横柄な態度でいても誰もあんたに逆らわなかっただろうけど、俺は下請けでもないしあんたはもうただの爺さんなんだから知らんがなの世界。そういう痛い年のとり方はしたくないものです。