教授のおかしな妄想殺人

2015年、米国、ウディ・アレン監督作

ある大学に赴任してきた大学教授は教え子の女子学生から好意を寄せられるが、生きる事に無気力でそれどころではなかった。しかし偶然カフェで聞いた悪徳判事のことを知り、判事を毒殺しようと計画する内に生きる目標を得て活力が湧いてくるのだった。

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恋愛と殺人の映画。
webを見ると、この映画のことを喜劇だと紹介しているものもあったが、笑う個所は全く無かった。でもそれは自分にとって可笑しくなかったというだけのことで、他の人はこの映画を観て大笑いしたのかも知れない。たぶんそんなことはないと思うけれど。
殺人の計画、準備を練る段階、そして実行、と普通の映画であれば緊迫感漂う映像と音で盛り上げるものだけれど、間の抜けた、というか、そんなシリアスな気持ちになれない音楽と、通常の生活の一場面であるかのような緊迫感のない映像で演出される。
一方、教授の男は同僚や女子学生に好意を寄せられ、二股をかけているような状態にさえなる。どちらも女性たちが先に好意を寄せる。そんな恋愛が描かれてる。

何が描きたいねん、と怒ってもいいかも知れない。
恋愛映画なら大きい小さいはともかくとして、恋が成就するまでの波乱を盛り上げたり下げたりと起伏をもって描くべきだろう。けれど、この映画では確かに波はあっても、それが特段大きな波ではなく、ただ浜辺に打ち寄せるさざ波のように、どうってことがないことのように描かれる。過剰な演出を拒否するように。
殺人も同じで犯罪映画、スリラーものなら、その部分をおどろおどろしく見せるものだけれど、同じように淡々と見せてしまう。
どっちに比重を置いて何を見せようとしているのか、と思ってもしまうが、そうではないかも知れない。
恋愛映画ならこう、犯罪映画ならこう、といった定型にはまっていなくても構わないしそういう映画があっても構わない。むしろなぜ型にはまってなければいけないのか、と思うべきかもしれない。恋の心の揺らぎが描かれない恋愛映画があってもいいし、犯罪のスリルを劇的に描かない犯罪映画があってもいい。あまりにも定まった型に慣れ過ぎてしまっているのかも知れない。そういう意味では、全く笑えなかった映画だったけれどやっぱり喜劇だったのかもしれない。

などと思うけれど、それはウディ・アレンという巧妙な映画作家であるという思いこみがあるからで、この映画の監督が監督第一作目、とかなら、この映画なんのこっちゃ、で終わってる話だと思います。