彼女がエスパーだったころ/宮内悠介 著
SFのような、そうでないような不思議な連作短編集
物語は記者である主人公が不思議な事件を取材するという形式で進みます。
『百匹目の猿』
火を起こすことを覚えた猿がその技術を日本中に伝搬していって人間に災いをもたらす話。
『彼女がエスパーだったころ』
スプーン曲げで超能力者として有名になった女性のその後の人生のお話。
『ムイシュキンの脳髄』
脳の一部を外科的施術によって手術し暴力衝動を抑えた男の話。
『水神計画』
水に「ありがとう」という言葉をかければ浄化されると主張する人たちが、原子力発電所の事故で発生した汚染水にその水を投入して浄化しようとする話。
『薄ければ薄いほど』
<量子結晶水>と呼ばれる、薬を効能がないほどに薄めた水を処方するホスピスのお話。
『沸点』
アルコール中毒の自助組織の内部で密かに行われる性的儀式を突きとめるお話
どれも疑似科学、カルト、などに纏わる物語で、科学的でない事象が発生してその行方を取材者が追うという構成です。ただ、どれを読んでも疑似科学を声高に批判するといった単純なものではない。でも、何か共通する部分があるような気がして、考えていたのだけれど、それは考えることを忘れて感性や感情に溺れる人達なのではないのかなと思うのです。
疑似科学、カルトを扱った『水神計画』、『薄ければ薄いほど』、『沸点』は科学的思考があれば排除できるはずのものに取り込まれてしまう人達のお話だし、『彼女がエスパーだったころ』、『ムイシュキンの脳髄』は感情を抑えることの出来ない人たちのお話。
どれも少し立ち止まって考えてみればそこに囚われずにすむはずなのに捕らわれてしまう人達という共通点がある気がします。そして『百匹目の猿』の火を覚えた猿こそは、本能に従うという考えることのない純粋な存在の象徴であるように思えます。
こういうのは今の世の中を反映しているのじゃないだろうか。
理路よりも感性に訴えかける言葉の方がより共感を呼び支持を得るという現象が多く見られる気がしている。理屈というのは知識を得て考えなければ判断できないのだけれど、感受性で判断することは誰にでも出来る。それゆえに、優しげな言葉や人情話を引き合いに出して心情を掴んでおいてから主張に導くという文章の構成を多分に見掛ける。文脈に関係の無いソフトな写真やイラストを挿入して雰囲気を作り上げて装飾している記事というものもよく見かける。正しい理屈ではなく良い雰囲気や印象によって信頼を勝ち取るような。
そういう感性を刺激してそちらへ引っ張って行くもの、そういうものに引き寄せられてしまう愚かさといったものへの警笛みたいな気持が作者の中にあるのではないだろうか。
短編ではあれど、どれも滋味深く、色んな要素が織り混ぜてあって一筋縄ではない。先に書いたような事だけが書かれているわけでもないし、疑似科学、超能力の存在を否定しないという物語の構造もあるし、ミステリーとしての謎解きもある。「痛快」や「爽快な読後感」というものではないけれど、色んなことを考えさせてくれる短編集でとても面白かったです。
こういう製本は、ソフトカバーというのですよね。無駄に高価な感じがしなくて好きです。