ヴィヴィアン・マイヤーを探して

2013年、米国、ジョン・マルーフ/チャーリー・シスケル監督
古いシカゴの街の写真を探していた青年(ジョン・マルーフ監督)は、オークションで大量の写真とネガフィルムを落札する。その価値に気付いた彼が、ネットで写真を公開すると評判になり、やがて世界中の都市で写真展が催されるほどの評価を得る。青年は写真の撮影者であるヴィヴィアン・マイヤーについて調査するが彼女は既に他界していた。彼女はどんな人間だったのか。
死後、その写真が評価されることとなった写真家、ヴィヴィアン・マイヤーを探すドキュメンタリー。

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マイヤーは乳母、家政婦をしながら、結婚もせず、子供を授かることもなく孤独に暮らしつつ写真を撮り続け、それをどこにも公開することなく亡くなったということが映画の中で描かれます。
アウトサイザーズ・アートで有名なヘンリー・ダーガーの写真家版といったところでしょうか。ダーガーと違うのは、マイヤーは外に出てストリートの写真を撮っていたというところ。ダーガーの場合は完全に内向きだったのに対して、写真を撮るという行為は外に出て行かなければ出来ない行為だから、そうなるのは必然だと思うが、やはり彼女は他人とのコミュニケーションを望んでいたのではないかな。孤独で不器用な女性が唯一見つけた他人との関わり方が、写真を撮るという方法だったんじゃないかと思える。

物語のある焦点は、なぜマイヤーは写真を公開しなかったのか、その意思があったのかなかったのかというもので、映画の中では、その意思はあったんじゃないかと語られるが、そこのところはどうなんだろう。
写真でも絵画でも文章でも、何か作品を公表することは少しばかりの気恥ずかしさがあるのだと思ってる。それは、作品を通して自分というものが浮き彫りになってしまう、それが他人に知られることでもあるという恥ずかしで、普通の人には多かれ少なかれそういう面はあると思う。そして、逆に作品を通して自分の事を知って貰いたい、賛意を得たいという裏腹な気持ちもある。
マイヤーが時に偽名を使うなどして、自分のことは一切知られたくないという風に行動していたことからも、彼女は自分の写真を作品として人に見せるというようなことには恥ずかしさがあったのじゃないかな。自分のことは知られたくない、だから写真も人には見せないという徹底さがあったように思う。

もうひとつは、何かの表現なり作品なりを創り上げるのに、そうせざるを得ない人とその作品を通して自分を理解して欲しいという欲求の元にやっているのとは随分違う。
我々がブログやSNSで何かを発信しているようでも、それによって自分という人間を知って貰いたい、同意して欲しいという小さなな気持ちは確実にあると思う。自分も含めて。
でも、マイヤーの写真を撮るという行為は、そうせざるを得なかったことなんじゃないか。他人に見せる為に写真を撮っているのではなくて、自分の為にやっていることだという気がする。それは写真を撮ることで他人と薄い関わりを持つ、孤独を癒すという、本人さえ自覚していない目的があったように思う。未現像のフィルムが多数あったことからも、彼女の目的は写真じゃなくて撮影という行為にあったんだと思う。そして、そうせざるを得ない人こそが真の芸術家なんじゃないかなと思うのでした。

 

Vivian Maier: Street Photographer

Vivian Maier: Street Photographer