Walk Home/INCAPACITANTS

インキャパシタンツの2012年作7inレコード。

ジャケットに一切クレジットの表記はなく、盤面のラベルも真っ黒で何も情報はない。インナーが一枚入っていてHemitagetapesというレーベルからリリースされたレコードであることが分かる。

Hemitagetapesのブログは2014年から更新されていないようだ。

HERMITAGETAPES

このレーベルはAndrew Coltraneという米国ノイズミュージシャンのレーベルらしく、自作を多くリリースしている。

DIscogsでこのレコードの頁を見ると

Incapacitants – Walk Home (2012, Vinyl) - Discogs

45rpmと表記がある。でも33rpmでも聴ける。

雑音蠢く王道ノイズ。Live録音というものではなさそうだけれど、曲名の「Walk Home」は、Home Workとかけているのだろうか。

昨日は、難波ベーアズでインキャパのライブがあった。観に行きたかったが、体調が悪く、とても耐えられないだろうと尻込みして行くのをやめてしまった。
つい先日も四日市ガレージバンドGasolineのライブが心斎橋であったはずで、これも寸前まで観に行こうかどうしようかと迷っていたが、どうにも出掛けることができず断念した。Gasolineは、もうすぐ新譜が出るはずだから見たかったし、インキャパも久々のライブであったので行きたかったが、どちらも行くことが出来なかった。睡眠を十分に取れず憂鬱と体の怠さが心と体にこびりついている。どうすればいいのか分からない。

ライブの様子はこんな感じだったようで、ああ見たかったなと嘆息するばかりだ。

ある男

2022年、日本、石川慶監督作

地方の町で林業に従事していた男が事故で亡くなる。亡くなった夫の一周忌にやってきた実兄は遺影を見て、「この男は弟ではない」と妻に告げる。妻は弁護士に、夫だった男が何者だったのか確かめて欲しいと依頼する。
平野啓一郎の同名小説を原作とした映画化作品。

www.youtube.com

原作を読んでいたので物語については、あの部分は省略したのだな、このことについては重点を置かずに表現したのか、といった感想になってしまう。ミステリー要素のある作品なので、その点についてはあまり書かない方が良いかも知れない。しかし入り組んだ謎が徐々に解き明かされるというストーリーをうまく映画の中に収めているのじゃないだろうかと思った。原作未読で観ればどんな感想を持ったのだろうと思うが、それはもう確かめようがない。

原作を読んでとても感銘を受けたので、登場人物については自分の中で既にイメージがあった。公開までに映画の予告を何度か見る度、この人はイメージ通りこの人はちょっと違うイメージ、などと思っていたが、自分の思っていた像と違うことがいけないのではなく、そのちょっとした違和感が映画を観ることによってどんな風に変わるのだろうという楽しみがあった。

外国映画を観るときには俳優の演技が上手いとかどうだとかいうことはあまり気にしないで観ていられて、それは遥々海を渡って公開されるくらいだからという安心感もあるだろうけれど、言葉が違うのでそういうことが気にならないのかも知れないし、解読できるほどの素養もない。けれど日本映画となると今の自分の生活の地続きにあるので、どうしても「こんなことは言わないのでは?」とか「こんなのはオーバーアクションではないだろうか」などと穿った見方をしてしまう。
『ある男』を観てどう思ったかというと「俳優陣が素敵な映画だな」という感想を持った。

事故で亡くなる男を演じた窪田正孝さんは、観る前からイメージ通りだったが、色んなシーンの数々で、戸籍を入れ替えて生き延びる男の悲哀と苦悩が乗り移ったようで、完全に映画の物語の中で生きている人だった。

夫を亡くした妻の役は安藤サクラさん。この女優さんには強い女性のイメージがあり、原作を読んだ感じでこの役は、賢明ではあるけれど弱さを持った女性という印象だったので少し違和感があったのだけれど、見事だった。原作を再読すれば安藤サクラさんでしか再現されないのじゃないだろうか。安藤サクラさんのイメージがガラッと変わってしまった。

弁護士の城戸を演じたのは妻夫木聡さん。もう少し年配の枯れた人物のイメージを持っていたので、少し若々しい妻夫木さんには、どんな風になるのだろうと期待していたけれど、その期待を良い意味で裏切る感じがあった。調査の過程で他者と会話する時には丁寧で微笑を絶やさない人格者である彼が、二度声を荒げる場面があったが、感情的に振る舞ってしまうときもあるという弱さが垣間見えた場面でもあり、全編にわたって少しの憂鬱と不安を抱えている複雑な人物が彼から印象付けられて映画の重さを形作っていたように思う。

妻夫木さんの同僚を演じた小籔さんは、正直心配だった。お笑い芸人でもあるし、彼には好きな面も嫌いな面もあるのだけれど、こういう人物が同僚だからこそ精神的に重荷になるような仕事でもやり遂げることができるのかも知れないな、と思わせるような軽さとその良さを両方感じることができた。ちょっと小藪さんのことが好きに傾いたかも知れない。

柄本明さんが演じた囚人の役は、原作を読んでいた時は太って脂ぎった徹底的に利己的な人物の印象だったが、年配の柄本さんが演じることでミステリアスな奥行きがあり、流石の怪優という貫禄があった。

亡くなった男の実兄を演じたのは眞島秀和さん。この俳優さんはまったく予備知識がなかったけれど、原作での印象は、今時はやりの経営者の言い分だけを振り回すビジネスヤンキー的なギラギラした人物の印象だったが、そういう面を誇張しすぎない感じで演じていて好感を持った。嫌な役だったのは確か。

妻夫木さん演じる弁護士の妻は真木ようこさん。パンフのインタビューを読むとご自分のキャラクターとは違和感があった役というようなことが書かれていた。原作では弁護士の城戸が世の中のことを憂いているのに対して家族と個人の幸福を追求することが優先だと思っている人物だったので、そういうところだろうか。この部分は映画ではあまり掘り下げられていなかった場面だと思うが、原作を読んでいた身からすると、ああこんな感じの女性だろうな、という人物を少ない登場場面で滲み出るように演じていたと思います。

最後に、安藤サクラさんの息子を演じた坂本愛登くんが素晴らしかった。原作で中学生のこの少年が、父親が亡くなって名字が変わってしまうことの悩みを打ち明ける場面はとても印象的だったので、この役をやる少年は大変ではないかと思っていたけれど、幼さと大人への萌芽が開き始めた複雑な年頃の少年を演じていて、彼が登場する度に少し涙ぐんでしまうくらい良かった。パンフを読むとこの場面では安藤サクラさんの助力があったようで、その辺りの俳優陣の奮闘も感動ポイントになった感じがある。

石川慶監督作の前作『蜜蜂と遠雷』はとても重厚で深い余韻があった。『ある男』では撮影監督が違っているということらしく、重さよりも現代の日常の地続きにある世界が描かれていたように感じた。映画は時代の記録であり、2022年にこの映画が公開されて、その景色は2022年のものだと後世になれば認識されるのだから、確かな手腕なのだと思う。

ラストシーン。あの場面をここに持ってくるのか、という驚きと余韻。これは原作を読んでいる人に味わえる感動だと思う。

裏面 ある幻想的な物語/アルフレート・クビーン 著

ドイツに住む画家は、見知らぬ男の訪問を受ける。彼が言うには、画家の同級生は富豪となり中央アジアに夢の国を建設している、そしてその国にあなたを招待したい、とのことだった。画家はその申し出を受けて妻と夢の国に移住するが、その国の崩壊を目撃することになる。

 

著者は1877年チェコに生まれた挿絵画家で、1909年に発表された小説がこの『裏面』となる。

町をひとつ自分で作ってみたいと思ったことはないだろうか。プラモデル、粘土、絵、嘘の地図、そして文章、そんな何某かの方法で町を作ってみたいと思ったことがないだろうか。俺はある。CADで偽の地図を作るのが面白いと思ってやってみたことがある。
主要駅があり、そこから路面電車の路線が延びている。町の中心部には川が流れていて、住宅地区、商業地区、工業地区、そして農地と分かれている。街路はきっちりとした碁盤目ではなく、入り組んでいる。路地を設計するのも楽しい。
著者は、そんな箱庭趣味を小説の形でやってみたのではないだろうか。もしも自分にあらん限りの富があったなら、理想の町を作るとしたら、そんな夢想を小説の形で具体化したのだろう。
そして、そのようなものが出来上がったらどうするだろう。手間暇かけて作り上げたものをじっくり鑑賞するのも良いだろうが、一番面白いのはぶっ壊すことではないだろうか。さんざん苦労して作り上げたものを一瞬で破壊する時の快感を味わおうとしたのではなかろうか。

小説の中では町の崩壊が延々と描かれる。そしてかなりグロテスクな描写もある。動物がやってきて、次に小動物と虫がやってくる。疫病も流行し人々のモラルも低下する。暴動が発生し軍隊が出動する。建物は崩れ落ちて文字通り町は崩壊する。
今どきの派手な映画を見慣れた身には、スペクタクルという点では少し物足りないけれど、これは日本でいえば明治時代に書かれた小説なのだ。そう思うと、なんと派手な破壊衝動を炸裂させた作品だろうと思う。

正直言うと前半はとても退屈だった。少し読んでは止め、別の本を読んだりして、まったく文章も頭に入らなかった。しかし後半は破壊と崩壊が描かれていて心地良い。まだこの時代は世界に明るい希望を持っていた時代ではないかと思うけれど、こんなに破滅的なことを描いたのは、この時代ならば画期的だったのではないだろうか。

何度も「もう読むのをやめてしまおうか」と思うも「ここでやめればもう二度とこの本を手にとって読み始めることはないのではないか」と思い意地になって読み進めた。
奇妙な一冊を読んだ。

悪魔が憐れむ歌 暗黒映画入門/高橋ヨシキ 著

映画監督としても活躍する高橋ヨシキ氏の映画評論集。

 

映画本は星の数ほどあれど、好きな映画本をひとつ選べと言われればこれになるのです。


『悪趣味洋画劇場』
1994年、洋泉社からの本。そこで取り上げられるのはホラー、スプラッター、カンフー、似非ドキュメントといったZ級映画たち。悪趣味ブームみたいなものも当時あったかな。でもサブカル的に消費される一種の嘲笑をともなった「悪趣味」ではなく、シネフィルたちからは見向きもされないそういう映画たちに底なしの愛を持って語る映画本だった。この本にある、映画『スナッフ』について書かれた中原昌也の文章は永遠の名文だと思ってる。

『悪魔が憐れむ歌』を読むと『悪趣味洋画劇場』が思い出された。雰囲気が似ている気がする。『悪趣味洋画劇場』の執筆者一覧を見ても高橋ヨシキの名前は見当たらないけれど、どこかに関係しているのではないかと思ってしまう。

取り上げられる映画はホラー、残酷ドキュメンタリー、SF、アクションといった、映画をアートだと捉えるシネフィルたちが馬鹿にするような映画ばかり。でもそこには愛がある。文庫版まえがきにはこんな一文がある。

初版の「あとがき」にも書いたように、『悪魔が憐れむ歌』はぼくにとって最初の映画評論集であると同時に、当時のぼくの魂が発した呪詛としての、あるいは異議申し立てとしての側面も強い。取り上げられた作品の多くは周縁的であり、「いかがわしい」。しかしそれは(しばしば誤解されるように)正統的で「メジャー」なものに対するルサンチマンに由来するわけではない。周縁的で「いかがわしい」ものでしか表現し得ないものが存在するというだけのことだ。

そうなのだ。周縁なのだ。
美しく高尚なものを求めるのは良いことだろうが、その反動として醜く低俗なものを憎む必要はない。山の中腹から頂上を目指すことは人間の衝動として当然のことだろうが、頂上に立って麓に蠢く人々に対して自分が高位にあると思うのは間違っている。ただ頂上に立っているということでしかない。高い場所からは色んな物を俯瞰できるだろうが、麓からみた景色に意味がないわけではない。
映画だってアート志向の映画や高名な映画賞を受賞した映画だけに価値があるわけではない。低俗と言われる映画は幾らでもあり、そのようなものを好む人間だっているのだ。高位から見た景色があるように低位から見た景色もある。中心から見えるものは多々あるだろうが周縁から見た景色を彼らは見ることができない。

東京から発信される情報が日本中に流布されているが地方に住む人間から見るとそれは中央から見たものしか語っていない。だから批判するのだ。お前たちは何も分かっていないと。お前たちは中心からの視点しか持っていない自覚があるのかと。

映画にだってそういうことはある。

スタッフロール/深緑野分 著

80年代にSF映画や怪獣映画で特殊造形師として働いていたマチルダは、突如姿を消してしまうが、彼女が最後に作ったモンスターはカルト映画としていつまでも人気があった。

2010年代に同作品がリメイクされることになり、CGクリエイターのヴィヴィアンはCGによるリメイクにファンからの賛否がある中で、伝説の造形師であるマティルダがCGに反感を持っていた事を知り悩む。映画の特撮、VFXをめぐるスタッフたちの物語。

感動的。
深緑野分さんは『戦場のコックたち』や『ベルリンは晴れているか』などの作品がSNSや書評などで話題になっていたので、いつか読んでみないと、と思っていたが、書店でこの『スタッフロール』が大々的に並べられていて、書店員さんが書いたであろうポップも熱がこもっていてので読んでみようと手に取った。
魅力的な人物たちが登場し、彼ら彼女らの心の揺れ動きに一喜一憂しながらどんどん読んでしまう。前半の主人公であるマチルダが後半になって登場する場面では、泣いてしまった。主役は二人の女性だけれど、群像劇といっていいほど色んな人物が現れて交錯し、どのキャラクターにも行動にしっかりした理由がある。特別に悪い人物がいないこともとても読後感が良い。
物語に感動したこともあるけれど、別の面で言えばVFXの裏側を描いた筆力が凄い。Youtubeにある深緑さんのインタビュー動画を見ると芸大に進学しようとしていたことがあったとか、造形に関わるお知り合いがいるということを仰っていた。巻末にも参考文献が並べられ、取材させて貰った関係者への謝辞が綴られているが、それにしたって凄い。その仕事に就いている人でさえこんなに事細かに描写できないのではないだろうか。またVFX製作の工程もかなり明確に把握していないとこんな風には書けないと思う場面が幾つもあったけれど、取材をしたくらいでこんなに理解できるものなのだろうかと思ってしまう。たぶん、1を観て10を知るみたいな特段に賢い人なのだろうなと思う。

二人の女性が主人公で、特に前半は男社会に進出していく女性の大変さということも描かれている。そして戦争の傷跡や現代のテロの恐怖など、ただの夢物語ではなく社会性があって時代と共に物語が進行していくのも心地よい。社会性がないお話は苦味が足りないと思ってしまうから。

本作のテーマはタイトルの通りに「スタッフロール」であり、エンドクレジットに名が記されるかどうかということでもある。仕事をしたことが記録に残るかどうか。しかし市井に生きる我々は毎日の仕事で名が残るということはない。
例えば、ひとつの建物を作る建設工事などは多くの作業員が参加して出来上がるものだけれど、名前が残るのは建築家や施工を請け負ったゼネコンの社名だけだろう。労働者たちの名前が残ることはない。大きな責任を負った人の名前だけが残るのだと思うかも知れないけれど、彼らが責任を担保できるのは、多くの人々がそれぞれの役割で責任を全うしているからであって、そういう土台の上に立っている。でも名前は残らない。
だから職人たちは車に乗っていて、景色の中にある建物に「あの建物は俺が作ったのだ」と言ったりするのだろう。誰も言ってくれないし褒めてはくれないからそうなるのだと思う。
名を残す、名を上げることを欲するという気持ちは、誰にでもある気がする。でもそんな気持ちに折り合いをつけながらみんな働いているのだよなあ、と小説とは少し違うことを思ったりもする。