激しき雪 最後の国士・野村秋介/山平重樹 著

新右翼民族派の思想的リーダーだった野村秋介の活動を綴った本。

 

今、野村秋介という名前を聞いてどれくらいの人が知っているのだろうか。93年に朝日新聞の社内で自決してから随分経っているし、元々右翼だとか左翼だとか、そういう思想に興味もない人も多いだろう。自分だって今現在の日本における代表的な右翼思想家を挙げろと言われても答えられないのだから。

野村秋介という人は「新右翼」や「民族派」と呼ばれた右翼の思想家で活動家です。その来歴や履歴は検索すればすぐ分かります。事件を起こして長い間獄中にいたこともある人で、最後は朝日新聞の社内で抗議の自決をするに至ります。

一時期、鈴木邦男野村秋介という新右翼の論客の本はよく読んだのです。

昔から右翼とか左翼というものに興味があって、新左翼極左と呼ばれる人たちのことを書いたもの、海外であれば毛沢東文化大革命カンボジアポル・ポトのことなど。そして新右翼鈴木邦男野村秋介。右翼の思想家として、このお二人の本が手に入りやすかったということもあるかも知れない。今時は書店に行けばネトウヨみたいな本がいっぱい並んでいますけど。

二人の新右翼の論客の書籍を幾らかでも読んだお陰で、現代のネット右翼だとか新保守という人たちの出鱈目さに惑わされずに済んでいるということも多分にあると思っている。鈴木、野村両氏の書籍を読むと反権力、反体制的であることがよく分かり、現代の劣化した右側の主張が体制側についていることも分かる。反権力だけが正しい思想ではないだろうけれど。

氏の本を読んで全てに同意したわけでもなく、違う意見も持っていた。一力一家の件では野村氏は暴力団の側についたが、自分としてはヤクザという人たちに同情する気持ちは全くなく違和感があった。

でも著作を色々と読んで、その思想に全面的に賛同はできないとしても、人物像にかなり惹かれたのは正直な気持ちだったと思う。

本書は、色々な事件について沢山の関係者から取材したのだろう。著者はアウトローものの書き手であるようなので、知己のある人物から色んな話を聞かされていたのかも知れない。彼らの内部でどんな会話がなされ、その時周囲の人間がどんな心持ちであったかが描かれていて、その辺りは興味深い。時に筆が走り、小説のような描写になっているところもあるように見受けられるけれど、それはそれ。

昔読んだ野村秋介氏の著作『いま君に牙はあるか』は随分感動した覚えがあるけれど、今読むとどんな感想を持つのだろうか。再読するのも良いかも知れない。

東京2020オリンピック SIDE:A

2022年、日本、河瀬直美 監督作

2020年に開催された東京オリンピックの記録映画。

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詩のように美しい映画だった。少し感動してしまった。

 

東京オリンピック開催までにはかなりのゴタゴタがあった。もういっぱいあり過ぎて、今からその記事を拾い出して、こんなこともあった、あんなこともあった、と書き出す気も起こらない。面倒くさい。

そしてこの映画が公開されるまでには、河瀬監督にも色んなことがあった。思い出せる範囲では、スタッフへの暴行、大学での挨拶(祝辞?)が批判されたり、製作の裏側を描いたテレビ番組では虚偽の内容があったとか、他にもあったのかも知れないけど、もう覚えてない。覚えておくのも面倒くさい。

 

河瀬監督の映画は一本も観ていない。評価の高い監督だから映画の好きな身としては「観ておかないと」とは思いつつも食指が動かなかった。ひとつには、河瀬監督は京都のFMラジオ、αSTATIONで日曜日の夕方の時間に番組を持っていて、それを何気なく聴くことが多かったのだけれど、いつも「ああ、この人はなんだか好きじゃない」と思って聴くのを止めてしまうことが多かったから。なぜ好きじゃないのかということを、番組を聴きながら考えたこともあって、彼女の語りには自画自賛がとても多く含まれているのが「なんだかなあ」という気持ちにさせるのだろうと思っていた。今もその印象は変わらない。

「俺はこんな凄いことをやってのけたのだ」というあからさまな自慢話は、流石に酔ったおっさんが酒場で気炎をあげているような場面でしか見たことがない。俺が俺が、みたいな人もちょっと恥ずかしい。明石家さんまさんのことも一時期そんな人だと思っていて少し嫌いだったこともあるから。あの人はナチュラルにそうなのか、そうすることが愚かしいことで可笑しさに繋がるから笑いとしてやってるのかもよく分からないところがあるけれど、今は中堅芸人に「またさんまさんが自分のことを話しだした」とやんわりつっこまれて笑いになっていて、その時のちょっと照れているさんまさんは愛らしい。

河瀬さんのDJは、そんな風な自慢話でもないし、俺が俺がアピールでもないのだけれど、さり気なく「わたしたちはすばらしいことをやっています」みたいな主張が随所に感じとられて、まあ確かに結果を残してる人ではあるけれどちょっとね、という感じになってしまった。アピールってのは大事ですけれども。

なので今作公開前に、炎上の狼煙が幾つも上がる度に監督作を一本も観たことがないのを思い出して「近寄るべきでない人には近寄らないようにセンサーが働いたのかもな」と思ったりしていた。

 

今作もあまり観たいと思っていなかった。東京オリンピック開催前には「こんな状況でやらんでも」と思っていたけれど「どうせやるんだろうな」とも思っていた。お役所仕事はいったん動き出したら止まらない国だから。負けると分かっていた戦争さえ止められなかった国だから。
なのでオリンピック自体も全く見ていない。テレビを持っていないことが一番の要因だけれど、職場でも殆ど話題になっていなかった。「ああ、やってるんですか」とか「もう終わったの?」くらいの感想しかなかった。個々の競技でどんな盛り上がりがあったかも全く知らずにいた。

 

そんな感じだったけれど、幾つもの不祥事や炎上が数え切れないほどあって、逆に「どういう映画になっているのだろう」という興味を持った。前回の東京オリンピックの記録映画は市川崑が監督していて、ずっとずっと前に一度見ただけだけれど、美しかったという印象が強く残っていて、さて今回は、という関心もあった。

 

映画を観た感想は冒頭に書いたように、詩のように美しい映画だった。

詩というものは、例えば俳句とか短歌のようなものだと、その定形という制約があるので言葉を連ねて表現ができない。しかしその制約ゆえに削ぎ落とした言葉で伝えることで余白が沢山あって美しさがある。そのような定型詩でなくとも5W1Hのようなものを明確に記さない、事細かに描写しないことで、写真であればフィルターのかかったような、ぼんやりと曖昧だけれど美しさがあったりする。

同じように、この映画でも、映像にナレーションで細かくその状況を付け加えたりしない。説明が殆どなく映像だけで映画は進む。優しい木漏れ日の映像の後にアスリートが映し出されれば、それがモンタージュ効果だとは分かっていても美しいと思ってしまう。ただ、清らかな水の中から水面を見上げるような神秘的な映像に続いてトライアスロンの競技が始まった時は「競技会場となる海は下水が流れ込んでいて汚い」みたいな報道があったことを思い出して、ちょっとやりすぎなんじゃないかと思って可笑しかった。

無観客の競技会場もその静けさが新鮮で、殆ど音楽もなく、それが逆に神秘的な印象になっていた。こんな光景はめったに見られるものじゃない、という驚きもあった。

オリンピックの反対デモも映し出されて、そのようなことがなかったかのように作られた映画でもなく、逆に開催を推進した人たちを英雄視するようなものでもなかった。女性監督であるからなのか、女性のアスリートたちと家族との関わりを描いたエピソードも挿入されていて、それも良かった。女性は妊娠すると競技どころではないわけで、そのような視点は男性の監督だったら描けなかったかも知れない。

 

説明のない映像で語る映画だったけれど、表彰台が映し出されたのも数えるほどだった。競技者が登場し、その背景が断片的に描かれるが、その成績が描かれない場面もあったように思う。「で、この選手は結局メダルをとったの?とらなかったの?」と思った箇所があり、メダルの数を競うオリンピック報道を馬鹿らしいと思っていたのに、自分も結局興味の対象はそこにあるのかということにも気付いてしまった。成績をはっきり表現しないのは結果が大事ではないというメッセージなのか、もう競技を観ていた皆さんならご存知ですよね、ということなのか、どっちなのか分からない。後者だとすれば、競技を観ていなかったということは『トップガン』を観ずに『マーベリック』を観に行ったような状態なので、まあそれはこっちの責任なので仕方ないかなとも思う。

 

つらつらと書いてみたけれど『SIDE:A』は観て、とても良かった。映像美に溢れた映画で少し元気がでた。6月になってから気が抜けたように腑抜けになっていたから。

『SIDE:B』が続けて公開されるらしいけれど、もういいんじゃないだろうか。ごたごたの部分を描くのだろうか。もう美しい思い出として終わってもいいんじゃないだろうか。

 

腑抜けで思い出したけれど、この映画の公式Webサイトの腑抜けっぷりは異常ではないだろうか。やる気のかけらも見られない。「お知らせ」という新着情報を載せる部分以外は、映画館に置いてあるチラシ以上の情報は何もない。と思ってチラシを引っ張りだしてみたら、本当にチラシの裏と表そのままだった。なんでこんなしょうもない公式サイトになっているのだろう。予算を使いすぎてお金がなくなってしまったのだろうか。

tokyo2020-officialfilm.jp

つつがない生活/INA

若き著者[二十代・新婚・自営業・パンクス]が描く、他者と共に生きる暮らしの記録。

 

どうやらジュンク堂書店リイド社と結託しているらしく、漫画のコーナーには『死都調布』だとかを堂々と陳列していて、いやでも目に入る。目に入るということなら『鬼滅の刃』も『チェンソーマン』も同じように視界に入ってくるけれど、それらではなく、この本を手にとってレジに持っていってしまうのは、アンテナが何かを受信したのでしょう。

冒頭を読み始めた時に、これは比較的幸福な生活を描いたつげ義春なのではないかと思った。なんだか主人公の姿が『無能の人』とか、あの辺りのつげ漫画に似ている気がしたのと、あまり裕福ではない夫婦のお話なのだろうかと思って。つげ義春の漫画にはそのようなお話が幾つもあるので。

トーチweb『つつがない生活』http://to-ti.in/product/tsutsukatsu


読み進めるとその感想が間違っていることに気付く。つげ義春のような夢も希望もないようなお話ではなく、小さな不幸はあるものの小さな幸福も描かれているから。でも、つげ義春の漫画にも幸福はあったかも。
人にこの漫画を勧めるとして「日常系ほのぼの漫画」と言ってしまうと色んな部分を逃してしまう気がする。日常を描いていて、確かにほのぼのする場面もあるけれど、新婚旅行の話もあるし、バンドのアメリカツアーの話もある。クスッと笑える場面もある。奥さんのやっちゃった顔なんかちょっと憎たらしいけれど可笑しい。
そして、そのどれにもなんとも言えない空気感が漂っていて、それが心地良い。

先頃、ShortNoteというWebサイトがサービスを終了した。エッセイ投稿サイトというもので、ユーザーが日々の生活で起こったことや思ったことを書きつけるというものだった。このサイトはエッセイに特化したサイトで、文字数制限のないTwitterのような感じでもあった。ユーザー数はTwitterのように巨大ではなく、全ての投稿を読んでしまえるほどのものでしかなかったけれど。
厳しい風紀委員がいたわけでもないのに、激しい口論や論争が起きたこともなく、それでも共通の話題で盛り上がることなどもあって和やかな雰囲気があり、仕事上で思ったこと、ちょっとした失敗、恋愛について、家族のこと、今日何を食べたとか、そういう日常の細々としたことが記述されていて、それをつらつらと読むのは意外と楽しく、また文章の上手い人も多かったように思う。

非日常の物語に惹かれることは多くて、そういうものに憧れる気持ちもあるけれど、やはり日常を愛して生きていかないとだめなのだと思う。
自己嫌悪に陥って自分が嫌いになると生きていく気力も失われてしまうように、繰り返しのこまごまとした生活のあれやこれやを楽しんでいかないと毎日が辛くなってしまう。ShortNoteを読んでいた頃にそんな気持ちになったし、『つつがない生活』を読んだ今も、もう一度そんなことを思っている。

 

 

著者はMILKというハードコアバンドのメンバーであるらしい。ああ、最近のパンクやハードコアになんと疎くなってしまったことか。

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トップガン マーベリック

2022年、米国、ジョセフ・コシンスキー監督作

トムがジェット戦闘機に乗って大空をクルーズする映画。

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面白かった。問答無用に。完膚なきまでに。完全無比に。
ただ、俺はこれを手放しで面白がっていていいのだろうか、といった気持ちもある。そして心の声は「考えるな」とも言っている。そんな葛藤を感想文として綴ってみたい。

先ず前提として申し上げておきたいのは、前作『トップガン』をリアルタイムでは観ていないこと。二日前に観た。予習として。なので過剰な思い入れがあるファンではないのです。MA1を着たこともないし、カワサキのバイクに乗ったこともない。ホンダとヤマハのバイクしか乗ったことない。

映画が始まって「ああ、ちゃんと前作へのリスペクトがある映画なのだな」という安心感があった。トニー・スコットが撮った前作では、冒頭に航空母艦の上で作業する人々がこれでもかと映し出され、その画面は美しかった。そして本作も。
スコットの撮ったこの場面は、36年経った今見てもスタイリッシュで格好良かったが、『マーベリック』では36年分の映像表現が更新されて進化していた。とても良い。

新型戦闘機に乗ってスピード・アタックをするシークエンスは、この映画が荒唐無稽な映画であることを高らかに宣言していて、なおかつ、マーベリックという男は36年前と少しも変わっていない無茶で無謀で、ある種の勇気がある人物であることも示している。
そしてその結果、大破した機から脱出したトムがアメリカの田舎町のダイナーにたどり着き、店にいる素朴な人々から宇宙服のようなスーツを着た姿を奇異の目で見られるというジョークで締めくくられている。ああ微笑ましい。

パイロット学校の教官になれと言われてバイクを引っ張り出して向かうトム。カワサキのバイクで。
前作のファンの為のノスタルジーにも多分に配慮されている。郷愁というものの甘い感覚を知らないわけではないけれど、基本的にはあまり好まない。だってそれは過去を懐かしむ気持ちでしょう?未来に向かう気持ちではないでしょう?不安は良い感情ではないけれど、未来への展望に不安を覚えるようなものの方が好き。それは希望と裏腹の気持ちだから。

とはいえ、ジェニファー・コネリーの家にバイクで向かう場面では、彼女の家が街区の角にあることなども前作から踏襲されていて、気遣いが細部まで行き渡っているなと思う。

感心したのは若手エースパイロットたちの描き方。彼らが次々と登場する場面では
「うわ、こんなに沢山出てきたら誰が誰だか覚えられない」
と思ったが、ルースター、ハングマン、フェニックス、ボブ、ペイバックとそれぞれの個性が描かれていて、ちゃんと判別がついて分かり易い。

そして前作では戦闘機の挙動や、誰が乗っている機体がどれなのかというのが少し分かり難かったのだが、その点も進化していて、何がどうなって誰がどんな風に振る舞っているのかがちゃんと分かる。こういうのも映像表現の進化、洗練だと思う。

個人的にはフェニックスが好きだ。軍隊なんて男社会の最たるもので、そこでエースパイロットになるまでにはどれほどの才能とそれを凌ぐ苦労があったのだろうかと考えてしまう。米軍はその辺りの男女の格差、差別の撤廃も積極的に行っているし自衛隊でもWAFと言われるような女性自衛官が活躍していて、そういうものを描いているとも言える。彼女のことをポリティカル・コレクトネスに配慮したポリコレ要員なんて陰口を他所の感想文で見かけたがとんでもない。頑張ってる女性と現実を描いてるんよ。
ただ、自分は映画に登場する強い女性が好きなのですね。それは何度も繰り返し観たウオルター・ヒルの傑作『ストリート・オブ・ファイヤー』に出てきたエイミー・マディガンのせいかもしれない。

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この映画はマイケル・パレダイアン・レインが主演の映画だけれど、パレを的確にサポートしながら女という立ち位置に甘んじないマディガンの役柄が格好良くて素敵な映画だった。あれのせいだろう。
フェニックスもそれに倣って助演と言っていい役柄だったけれど、とても力強い女性で魅力的な役柄だった。演じたのはモニカ・バルバロという方。トップガン3があるとすれば彼女の活躍を描くってのはどうよ。

以下はネタバレになるから書かない、といいつつ書くけれど、やっぱりお前が行くんかい!というツッコミを呼び起こす展開には微笑みで返すしかない。そしてF18ホーネットが空母から発艦して行く場面は最大限に美しく、編隊を組むその戦闘機の姿は勇姿としか言えない。そして彼らが往く谷での航空アクションたるや。

トム機が撃墜された時には、これで映画は終わるのだろうと思った。無事脱出して良かった良かった、みたいに。そこからの展開は予想外の展開で、最後まで緊張感を持続させる娯楽映画として最高の展開だった。若手に花を持たせることも忘れてなかったし。

そんな最高の映画だったけれど、小言を少し。

敵がどの国なのかはっきりと描かれていない。これは前作でも同様だったから、踏襲しているとも言える。でも、そのことをはっきりさせることから逃げたとも言える。
米軍が他国に侵入して破壊行為を行うことにも特に言及はない。
ロシアがウクライナに侵攻してから、ある種の意見がインターネットで見受けられたが、それは「ロシアを非難するならアメリカのやってきたことも批判するべきでは?」というものだった。世論がウクライナ支援一色になっていることへの逆張りといえばそうなのだけれど、アメリカという国がやってきたことも、まあ非道いですよね。この時期に言うことかどうかは別にして確かにそうだし、その意見だけを見れば正論でもある。
娯楽映画だから、という免罪符はあると思う。頭をスッカラカンにして難しいことを考えずに楽しみたい時は誰でもある。日常の抑圧から解放されたいのだから我々は。

でもね、そんな気持ちからエンタメに従事している人に政治的な発言をしてほしくない、といった意見になったりする。
先日twitterで、コーヒー店の店主が今般の時勢で豆の仕入れに難儀していることをつぶやき関連して政治に嘆くようなツイートをしたものに「コーヒーの情報を知りたいだけなので政治的な発言をするな」といったRTがあったらしい。
コーヒー店の店主だって政治に一言物申したいことはあるだろう。そしてそれを言うことは言論の自由などを持ち出すまでもないことだ。でもそんなRTを送る人間もいる。
芸能人に政治的な発言をしてほしくないと思う人も多くいる。お笑い芸人などは極力そのようなことを言わないようにしているようにに見受けられる。彼らは客を笑わせる商売だから政治や党派性は商売の邪魔になるだろうから。そういう意味で水道橋博士は偉いと思う。お笑い芸人なのに参議院に立候補するんだから。もう死んじゃったけど立川談志横山ノックも偉い。130Rのほんこんも偉いのかもね。

映画の話に戻るけど、この映画も政治的なことは曖昧にして娯楽だからと、そこを描いていない。そこには政治と党派性が生まれるから。

トム・クルーズはこの映画を作るために体を張ってる。逃げてない。でも政治的なことからは逃げてる。党派性を表出させないように。
娯楽作を興行的に成功させるという意味では正しい判断だと思うけれど、それは自身の主張を映画に込めるという芸術家のやることではないのでは?。主張がないなら仕方ないけれど、日々の生活に政治の影響は不可欠なのでは?

と綴ってきたけれど、うんざりでしょう?何にでも政治を持ち込んだりするのって。その意見が多数なのだろうから正しいと思いますよ。笑い飛ばすのが良いのかもね。

でもね、かつてEastern Youth
「バカになれ、楽になれ」と歌ったんですよ。

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バカに「バカになれ」とは言わない。楽をしてる人間に「楽になれ」とは言わない。考えすぎて苦しんでいる人間にこの言葉は捧げられるんだよ。

バカになればこの映画を心の底から楽しんだと思うんですよ。政治も社会も見ないふりして、登場人物の崇高な自己犠牲に涙して、武器を行使する強さ、他国を侵害しても正義の鉄槌を振りかざす圧倒的正しさ、そんなものを無邪気に楽しめたら悩まなくて済むんですよ。この映画をただ無邪気に絶賛できるのが羨ましい。

でもね、俺には一抹の迷いがあるの。なのに映画として面白かったんだよ。だから葛藤があるんだよ。

アメリカ大陸のナチ文学/ロベルト・ボラーニョ 著

南米で活躍した詩人や作家を紹介する人物辞典のような内容。ただし、全て架空の人物である。

 

各編は、名前と生年、没年が最初に記され、その人物が詩人や作家としてどのような履歴を持っているかということが書かれている。小説としての文章ではなく、淡々と伝記を綴るような文章で。
書名にもあるナチとの関わりはそれほど濃厚ではないが、少し調べると、スペインは第二次大戦時に中立ではあるものの枢軸国にも協力的だったことを知った。子供の頃にナチスの戦犯がイスラエルモサドによって南米で見つかった、というようなニュースがあったことをうっすら覚えている。

架空の人物についての伝記、というとまるっきり嘘で出鱈目だと思ってしまうが、小説というものもそういうものだろう。本書は物語として記述された本ではないから、その違いでしかない。
感動を煽ったりせず淡々と実際に起ったかのように嘘を列記している。その読後感は小説を読見終えた時と幾分違う。各編を読み終えた後に「でもこれは嘘のはなしなのだな」と思い出したりする。南米の詩人についての虚実を判定するような知識はないから。

不思議な読後感のある書物で楽しんだ。
残念なのは、読み始めて途中まで読んだところで、どこかに本を紛失して続きが読めないままになっていた。最近になって部屋の中で見つかってようやく読み終えたけれど、見つかった時に挟まっていた栞よりも前の内容は全くといっていいほど覚えていなかった。中途半端な読書をしたことが悔やまれる。