その街の今は/柴崎友香 著

20代のカフェでバイトをしている女性は、昔の大阪の写真を集めていたが、同じようなことに興味を持っている年下の男性と出会う。現代の大阪を舞台にした小説。

その街の今は (新潮文庫)

その街の今は (新潮文庫)

 

 

とても透明な小説。今どこかにいる人の日常を覗き見ているような感じ。どこにでもありそうな、どこにでも居そうな、そんなお話。
常々、特別な出来事が起こらなくても小説として良いのではないか、我々は劇的な物語を見せられることに慣れてしまっているのではないか、本当に尊いのは日常であって、そういうものを文学者は描くべきではないだろうか、などと思っていたけれど、そういうのがこういう小説なのだと思う。
しかし読後感は少し物足らない。やはり何がしかの物語的な起伏は必要なのではないだろうか、しかしそう思うのは自分が先述のように劇的な物語に馴れてしまっているからそう思うのだろうか、などとも思う。でも正直物足らない。

なんだろう。ここに登場している人物たちは満ち足りているように見える。何も鬱屈がない。生活に充足している人の物語にしか見えない。彼等彼女等に少しも共感することがなく、さらさらと読み終えてしまった。

神戸・続神戸/西東三鬼 著

戦時中の神戸、東京から神戸に遁走した男はホテル住まいとなり、そこでうごめく住人たちと生活を共にするようになる。

神戸・続神戸 (新潮文庫)

神戸・続神戸 (新潮文庫)

  • 作者:西東 三鬼
  • 発売日: 2019/06/26
  • メディア: 文庫
 

 

文章術の本などを読んでいたら川端康成井伏鱒二が読みたくなって書店に行こうと思った。しかし地元の書店は百貨店の中にあり、緊急事態宣言中なので営業していないのだった。時勢だから仕方ない。書店が悪いわけではない。

梅田を通る用事があったので堂島のジュンク堂まで行った。大型書店の棚をくまなく見て歩くのはそれだけで楽しい。あれもこれも読みたいという欲が湧いてくるから。最近は欲望が枯れてしまったようになっていて、珠の休日も横になってウトウトしている内に一日が過ぎてしまうようなことばかりだった。仕事の疲れが抜けず、なんとか休日に体力を回復せねばと思うだけで、他にやることといえば酒を飲むくらいしか思いつかず、毎日の労働で体力だけでなく気力も削がれていた。書店に行って読書欲が湧いてくるだけでもありがたい。

新潮文庫の棚を見ていると気になる表紙の一冊があった。町の情景を描いた版画のその表紙は小さなパノラマを見ているような心躍るもので、タイトルは『神戸・続神戸』とシンプル極まりない。著者の西東三鬼という名前も全く知らないけれど良い感じの薄さで、文庫本なのに分厚くってそこそこお値段のするものも貫禄があってそれはそれでよろしいけれど、持ち歩いたり寝転がって読むには少し負担で、そういう意味では文庫本というのは薄いほうがよろしい。そう思ってる。要は書籍の中身は何も分からないけれどなんだか惹かれるものがあって購入したのでした。

 

戦時中の神戸でホテル住まいをしていた著者(主人公)の生活が描かれている。そこに住んでいるのは

日本人が十二人、白系ロシア女一人、トルコタタール夫婦一組、エジプト男一人、台湾男一人、朝鮮女一人であった。十二人の日本人の中、男は私の他に中年の病院長が一人で、あとの十人はバーのマダムか、そこに働いている女であった。彼女等は、停泊中の、ドイツの潜水艦や貨物船の乗組員が持ち込んで来る、缶詰や黒パンを食って生きていた。

 戦時下の神戸で彼らと暮らした日々というか騒動というか厄介事というかそれでもやはり日常というか、そういう生活が描かれている。

どの登場人物も個性的で、無頼でお人好しでたくましく、駄目人間でありながら独立している。官憲に流されず自分の力で生活を営んでいる。神戸の町並みが思い出され、そこで奇人たちが闊歩している情景がとても楽しい。

 

小説だと思って読み始めたのだけれど、少し調べると、著者は俳人で当時は実際にこのような生活をしていた模様。実体験を書き綴っているようだが、虚実入り混じっているようにも思える。

新潮社のこの本を紹介しているページを見ても小説とは書いていない。裏表紙には「魔術のような二篇」と書かれており、これも小説であるとは明示されていない。本文、第九話『鱶の湯びき』には著者の筆により

 私は「神戸」の話をすでに八回書き、これからも書くのだが、何のために書くのか、実はよく判らないのである。読者を娯しませるためなら、事実だけを記録しないで、大いにフィクションを用いるだろう。しかし、頑強に事実だけを羅列していたところをみると、目的は読者の一微笑を博したいのでもないらしい。

 

とある。事実だけを記録しフィクションを用いていないということが書かれている。少し重複するけれど、解説の森見登美彦氏によると

 西東三鬼は「読者を娯しませるためなら、事実だけを記録しないで、大いにフィクションを用いるだろう」と書いている。しかしながら、同じような素材をイカニモな小説に仕立てたところで、「神戸」のような面白さや凄みが描きだせるだろうか。それは疑わしいと私は思う。むしろ「大いにフィクションを用い」ないからこそ、この作品は傑作になったのである。

 だからといって、「フィクションでない」と言い切ることもできない。

 

と書いている。本当の話なのか作り話なのかは気になるところだけれど、その境界が曖昧な話というのもいいかも知れない。

かつて無頼な生活を送っていた、というようなやんちゃ話を酒場で知らない男から聞かせられることもあるけれど、そのような話で面白いものもあるしそうでもないものもある。

なんだかただの苦労話を湿り気たっぷりに聞かせられるのは鬱陶しくてかなわない。俺様自慢があちこちに吹き出しているような語り口も気に食わない。

そう思うとこの本は昔のやんちゃ話の一種ではあるけれど、乾いていて情にまみれたウエットさがなく、大変な日々を笑い飛ばすような軽やかさがある。小説なのか実話なのかの境界が曖昧なように、現実のようでいて幻想譚のような、それこそ魔術的な語り口と内容のお話だと思う。

『続神戸』は『神戸』から3年後に書かれたもので、同じ著者がほぼ同じ時代のことを書いてもこれほど印象が変わるというのが不思議な感じがする。

井伏鱒二は自分の小説について、戦時中のシンガポールにいてその土地のことを書いたものと日本の静かな谷間の釣宿で書いた小説との文体が同じであると記し、題材によって文体は変わるべきかもしれないと前述の文章術の書籍に書いている。
『神戸』に続く『続神戸』はそれほど文体が変わっているとは思えないのだけれど、戦中の話と戦争直後の話という題材の違いや、著者の執筆の意欲みたいなものが違うのだろうか。大きく印象が異なってこれはこれで興味深い。

 

偶々出会った本だったけれど大層に面白い書籍でありました。

未来人サイジョー/いましろたかし

2020年から1970年にタイムスリップした漫画アシスタント一筋の男は、漫画家志望の若者と出会い『北斗の拳』や『デス・ノート』をパクった原作で一旗上げようとする。

 いましろたかし神様のストーリー漫画。味わいが深い。

物語としては上記に書いたような粗筋ではあって、その顛末、行き着く先はどこなのかという興味もあるのだけれど、いましろ漫画というのは、そういうものではなくてリズムというかグルーブというか雰囲気というかビート感というか、読んでいる間の心地を楽しむものだと思うのです。そしてそれが素晴らしく気持ち良い。

漫画家になろうと熱い志を持った若者の物語としても読めるし、もう未来に期待していない中年男の投げやりな気持ちを綴った話でもあるし、そこに衛星のように登場するサブキャラクターにも魅力がある。三流マンガ誌の重鎮である漫画家先生やそのアシスタント、編集者、主人公の姉など、なんでこんなにちょっとしか出てこないキャラクターも残念で愛おしくやりきれなさが充満しているのか。魔術だと思う。

華々しい劇的な展開はないし、終始投げやりというか諦めというか、明るい未来が待っているという期待感はなく物語は進むが、そういうのは少年漫画にまかせておけばいいのであって、もっと違う枯れた味わいというか、明るいだけでない心の機微が描かれていて、漫画の中で描かれている以上のふくよかな味わいがあると思う。いましろ作品ってそういうものだと思う。

いましろたかし巨匠による久々のストーリー漫画で期待と不安が交錯しながら読み始めたけれど期待を上回り不安を完全に払拭する出来だった。好き。

大阪/岸政彦 柴崎友香 著

大阪について

大阪

大阪

社会学者で小説家の岸政彦さんと小説家の共著による大阪についての随筆。岸さんは中部のご出身なようで大学から関西に来られて、今も関西の大学で先生をしておられる。柴崎さんは大正区で育って子供の頃から大阪だけれど今は東京にいる方、なので本の帯に「大阪に来た人、大阪を出た人。」とあるのはお二人の立ち位置を表している。

面白かった。大阪というのはどんな街かというと、一言では言い表せなくて、それは結構な都会であるからそこで暮らし働いた人の数だけ街の印象があるから。そんな一言で言い表すような雑なことはできない。
この本では著者二人の見聞きした大阪が描写されている。そういう風に街を語るのには自分が見て経験したことを記録するしかない。街の表情は多面的で、どの面に自分が接するかで印象は変る。良い思い出が多ければ良い街になるだろうし、辛い出来事ばかりの記憶が残ればその街を嫌いになるだろう。街を語るということはそういうことだと思う。

関西のテレビが発信する芸人の語るコテコテのたこ焼きとお好み焼きの街だけが大阪ではない。当たり前だけれど。でもテレビの発信力というのは力強いし、逆にそのイメージに自分から寄せていってしまう人も大勢いる。そんなステレオタイプにわざわざハマりにいかなくても、と思うけれど。

ISHIYA私観|ジャパニーズ・ハードコア30年史/ISHIYA 著

DEATH SIDE/FORWARDというバンドで東京のハードコアシーンを体験してきたISHIYA氏によるジャパニーズ・ハードコア史。

ISHIYA私観 ジャパニーズ・ハードコア30年史

ISHIYA私観 ジャパニーズ・ハードコア30年史

  • 作者:ISHIYA
  • 発売日: 2021/01/10
  • メディア: 単行本
GAUZE、LIP CREAM、OUTO、S.O.B等々日本のハードコアの先駆けとなったバンドの名前が多数でてきて、筆者とそのバンドにどんな関わりがあったかが綴られていく。ハードコア・パンクというジャンルの渦中にいた人物が彼らの歴史を綴るということは正当なことだと思う。様々な関係性が垣間見えてとても興味深く読んだ。
自分はハードコアに詳しいわけではない。ないけれど、ちっとも知らないということもない。かつてはライブに出掛けたことも多々あってbathtub shitterというバンドがとても好きだった。でも彼らの名前は本書にはでてこない。大阪のバンドだから。
こういう本に俺の好きなアレがデてこない、なんて文句を言っても仕方ない。書名に「私観」と書かれている通り、筆者の見て体験したことが書かれているのだから。
ただ思うのは、東京のシーンというものはこうやって書き手が現れて記録されるけれど、地方のことはそうでもない。歴史に残らないというか。本書ではその点も行き届いていて、筆者がツアーで訪れた各都市で印象に残ったバンドやライブハウスについても記されている。素晴らしい。
ちなみにISHIYA氏の著作には『関西ハードコア』という関西のハードコア創世記の歴史といえる著作もある。これも歴史の記録になる。
でも他の都市でうごめいていたバンドたちの歴史は、そこで誰かが記録を残さなければ忘れ去られてしまう。記録が残って歴史になるということを考えた本だった。