Fukushima50

2020年、日本、若松節朗監督

2011年に東北を襲った大地震により過酷事故を起こした福島第一原子力発電所。その時その場所で対応に追われた原発職員たちを描いた物語。

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当時は、ずっとテレビとネットで原発のニュースを追っていて不安になっていて、大変なことになると思っていた。後に水素爆発と伝えられたニュース映像を観た時は東北以北は人が住めない土地になってしまうんじゃないかとさえ思っていた。
そんな原発の中でなんとか大事故を回避しようと献身的に働いていた人達を描いた映画で、当時の記憶が蘇るような気持ちもあったけれど、やはり現実に国土が失われるのではないかという恐れに比べれば映画の中で体験する感情は違っていた。端的に言うと、どきどきすることはなくたんたんと観てしまった。原発の危機を連続して描けばよいものを途中で避難所の家族をはさんだりするからリズムが悪いんだと思う。原発事故の恐ろしさを伝えるには映画としてとても間の抜けた作りだったと思う。

感心したのは、首相や官邸とその周辺を無能で馬鹿な権力者と描いていたところ。為政者を批判的に描いた日本映画なんて最近あったかしら。そんなことが日本映画にできると思っていなかったので少し感心した。
映画の役割の一つをきっちり果たしていると思うが、ただそれが非自民党政権だったからできた、ということでないことを望みます。気骨ある映画人なら今の国会で行われていることも批判的に見ているでしょうから。

献身的であることや自己犠牲を厭わない精神というものはとても崇高で、それを描いた物語に沢山の人が感動するのは分かる。自分もそういうものには感動してしまうから。でも一方でそういう話は好きじゃないという気持ちもある。自己犠牲を尊ぶ前に犠牲がなければ回らない制度や犠牲を強いるシステムを憎むべきだと思うから。
この映画で言えば、原発の中で事故を食い止めようとした人たちは尊い働きをしたと思うけれど、原発は大事故を起こせば人間には制御できない人類にとって過大な装置だと思うし、それを軽んじたり推進したりする人間にも腹が立つ。ずっとそういう心持でいたい。

佐藤浩一が原発の制御室での責任者を演じていてとても良かった。過酷さとそれによる疲れとが感じられた。渡辺謙の所長も貫禄があった。でも他のキャストは重みがなくて印象が薄い。安田成美が原発の総務の役として出てたけれど、なぜそこに居るのか何をやろうとしているのか必要性が理解出来ないし大根で終始いらいらさせられた。

ラストは東北に桜が咲いて復興が進んでいてめでたしめでたし、みたいな感じで終わったけれど、原発事故はまだ終息していないという認識でいるのでアンダーコントロールでもないし、もう終わったことみたいなラストはもの凄く無責任で物事を美化すれば現実を歪曲出来ると思ってるかのようで凄く気持ち悪かった。

新仁義なき戦い 組長最後の日

1976年、日本、深作欣二監督作

関西ヤクザVS九州ヤクザの抗争の中で翻弄される菅原文太の物語

https://www.youtube.com/watch?v=U3J6yfQw8C4&t=97s

仁義なき戦い』から『新仁義なき戦い』と続いた実録ヤクザ映画の最終章。この後に工藤栄一監督作や、ずっと経ってから阪本順治監督作が続くけれど深作欣二監督作としてはこれが最後。感想はというと、正直もうしんどい。

物語は、九州ヤクザ連合の下部組織に所属する菅原文太が親分の仇を討つ為に関西ヤクザの組長を殺しに行くことで終焉となる。
1976年だと、大阪では山口組と他の組との抗争が現実に起こっていた頃で、本作で関西の坂本組とされているのは明らかに山口組がモデルだと思われる。なので九州の名もなきヤクザが山口組の組長を暗殺するという、その世界では有り得ないような夢のお話ということだろう。ファンタジー

仁義なき戦いシリーズをずっと見てきたけれど、今の日本映画とは本当に違うなあと。あまり日本映画を観に行かないけれど、映画館に行くと上映前に近日上映の映画の予告は沢山あって日本映画の予告も観る機会が多い。でもその殆どに食指が動かない。どれも「人情話やん」としか思えなくて。

先日『マスカレード・ホテル』という昨年の日本映画をビデオで見たけれど、長澤まさみが働くホテルで殺人予告があったのでキムタク刑事がホテルマンに成りすまして潜入捜査するという映画だった。ホテルでの仕事の大変さを描くのに、無茶な客に言い分にも従うとか、無茶な客だと思ってたら心温まる事情があった、みたいなことで、殺人事件の方はどうでもいい話で、結局人情話がメインかい、みたいな気になった。心温まるちょっと良い話とか映画でわざわざ観たくない。

それに比べて『仁義なき戦い』シリーズには、ちょっと良い話は皆無。いや、菅原文太だけは全編を通じて男としての行き方の模範を示しているのでいい話なのかも知れないけれど、そこで描かれるのは卑怯と臆病と保身と裏切りみたいな負の感情と行動のオンパレードで、今の日本映画が極力排除しようとしている要素ばかり。時代がまだまだ野蛮だったということなのかも知れないが、現実の生き辛さみたいなものが実際に身近にあるのにそれを描かないのはファンタジーでしかないから。ファンタジーでもただの夢の世界じゃなくて現実の何かが込められていないと観る価値があると思えない。

とはいえそんなお話ばかりをずっと観てるのも正直ちょっとしんどくなってきた。もうちょっと観るけど。

新仁義なき戦い 組長の首

1975年、日本、深作欣二監督作

九州、門司にある大和田組幹部の男と流れ者の男は敵対勢力の幹部を殺害することに成功したが、流れ者の男は罪をかぶって7年間の懲役に服する。出所後、功労が認められているはずの幹部に会うが彼は落ちぶれた存在だった。流れ者の男は罪をかぶった労の代償として大和田組に500万円の金を請求するが。

https://www.youtube.com/watch?v=YvozXuF1xBw

仁義なき戦い』から続くシリーズは実録物と呼ばれるように実際にあった出来事が下敷きになっているけれど、本作は完全に創作の物語であるらしく、脚本にも3人の名前がクレジットされている。その結果、ドラマとしての起伏が大きくなって物語が面白いものになっている。
菅原文太はこのシリーズの中で主人公であったり傍観者であったりと色んな立ち位置で出演するが、本作では組織内の抗争の渦中にある人物ではなく、外部から引っかき回す役として暗躍し、黒沢明の『用心棒』のような面白さがある。
成田三樹夫が演じる幹部は非常に狡猾であるが、終盤には肝の小さいところが露呈したり、菅原文太の弟分である小林稔侍と三上寛の兄貴分に従う姿がいじらしかったり、ヒロポンを扱って大金を稼ぐ室田日出男がひたすら傲慢な男だったり、と登場人物が色濃く俳優の魅力も充分に味わえる。特に麻薬中毒になって組の中で厄介者になってしまっている山崎努がヤクザらしからぬ無法者を演じていて格好良い。

脚本は、年齢順で佐治乾、高田宏治田中陽造の3人。高田は『仁義なき戦い 完結編』からこのシリーズに加わっているが、5歳年上の佐治は50年代から日活で活躍した人、田中は高田の5歳下でヤクザ映画の脚本は本作が初めてになる。3人が知恵を絞って起伏のある物語を作りあげたことが窺える。

1917 命をかけた伝令

2020年、英・米国、サム・メンデス監督作

第一次大戦の最前線において英軍は、明日攻撃を仕掛けようとしている部隊の先にはドイツ軍が周到な準備をして待ち構えていることを察知する。司令部は二人の上等兵に攻撃中止命令の伝令という任務を託す。

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全編ワンカット、という触れ込みの本作ですが、実際はワンカットの撮影ではなく巧妙に編集で繋げているらしい。まあ当たり前で、2時間の映画をまるまる一発撮りで撮影できるわけもないとは思う。しかしほぼワンカットに見える映像で大変迫力があった。
映し出されている映像の裏側には緻密な準備と一回の撮影に賭ける労力と、移動しながら広がる景色の中の物が全てこの映画の為に創り出されたものだとう物量に圧倒された。

物語は単純で、伝令が前線を横切って伝令と任務を果たせるのかどうか、ということだが、途中にいる敵兵に何度も阻まれ、また、どこに敵が潜んでいるかもしれないというサスペンスとしてとてもハラハラしながら観た。そしてそれがリアルタイム(であるかのような)ワンカットで見せられることで主人公の兵士と同行しているような感覚を味わわせてくれた。
近年のワンカットが話題になった映画というと『カメラを止めるな』で、あれはワンカット撮影というものの内幕、舞台裏を見せることで喜劇として、そしてそこで苦労するスタッフたちの苦労が人間ドラマになって面白い作品になった良作だったけれど、本作はワンカットを迫力と没入感という効用を与える為に大掛かりな仕掛けで取り組んだ労作で、暫くこんな凄い映画はないんじゃないかと思えるくらい面白かったです。人物造形が浅い、みたいな評もあるみたいだけれど、映像の迫力に圧倒された。映画館の大画面で観た方がよい映画だと思います。

ごろごろ、神戸。/平民金子 著

書名の<ごろごろ>とはベビーカーを押して歩く音。神戸在住平民金子氏が、その通りに、幼い子供を連れて神戸の東半分を歩き回る随筆集。 

ごろごろ、神戸。

ごろごろ、神戸。

  • 作者:平民金子
  • 発売日: 2019/12/10
  • メディア: 単行本
 

 
神戸という町には時々行く。毎月一度、阪神間の街へ行く用事があって、そういう時に神戸まで足をのばしてぶらぶらしたりする。出掛けていっても本屋とレコード屋にしか用事のない人なので三宮から元町辺りの繁華な場所をうろうろするだけだが、一度気紛れを起こして新開地から湊川辺りを散策した折には好みの商店街や街並みがあってとても印象が良かった。大阪で言うと新世界や天王寺辺りに似た感じだが、大阪のそれは観光地然とした模様になっていたり、再開発で西日本一の高層ビルができて周辺もうらさびれた町並みが少なくなってしまって随分魅力がなくなった。けれど、新開地や湊川には、そんな古き良き感じが残っている場所だった。

この本は著者が小さな子供をあやす為に神戸の街を右往左往する。子供を遊ばせるのに丁度良い場所なども紹介されているし、子供と一緒に街を歩くことで気付かされることなども書かれている。なので本屋の育児書のコーナーにあったのも頷ける。
それと同時に神戸の東半分(兵庫区、灘区、須磨区など)に散在する庶民的な商店街についても多くが書かれている。個人商店の連なりでできている商店街で子供を連れて食べたり呑んだり買物をしたりして、そういう古き良き商店街の良さが記されている。そしてそういうものが徐々に失われていっていることに淋しさを覚えつつ、でもそれは手前勝手なことではないのかという自省の念も書かれていて、真に全方位的に正しいと思う。いや、合ってるとか間違ってるとかそんな問題でもないけれど。

神戸の街並、特に商店街、そして子供と行ける場所や商店街でのグルメなどについて書かれていて育児書の棚に並んでいた本だけれど、街を散策し、そこで何を思い、何かを思い出し、その上で生活に帰っていく、そういう姿に男の生き様が滲み出ていると思う。
育児書の棚に並んでいたけれど内容はとてもハードボイルドな随筆だと思う。

神戸に行ってぶらぶらしたくなる本でした。